高野山では至る所で般若心経を意味にします。
朝のお勤めだけでなく、奥ノ院などの参拝中に参拝者の方も唱えています。
小学生くらいの子供がお爺さんと一緒に唱えている姿も目にしました。


その子供を見て私が小学生の時のことを思い出しました。
飼育員長をやっていた私は、学校で飼っていたウサギが死んで埋葬するときに、祖母にもらった般若心経を学校に持って行って皆で読むということを行っていたのです。意味も分からずに。
子供ながらにシブいことしていました。
今、思えば当時からそういうコトしていたんですね(^_^;)


高野山にちょっといただけで、「はんにゃ~は~ら~み~た~」という般若心経のリズムが頭の中をグルグルしております。


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般若心経はもともとサンスクリット語で書かれています。


お釈迦様が悟りによって得た最高の智慧と、その悟りの道を示した経典です。
また般若心経は人がどのような意識レベルにいて、どのような苦しみを持っているか、またそこから抜けていくとどうなるかを説明しています。


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般若心経の冒頭


観自在菩薩(カンジザイボサツ)
行深般若波羅蜜多時(ハンニャハラミタジ)
照見五蘊皆空 (ショウケンゴオンカイクウ)
度一切苦厄(ドイッサイクヤク)  …と般若心経は始まります。


最初の2行の意味は「観自在菩薩様が「般若波羅蜜多」の行をしている時のことです」となります。

漢字ばっかりだから敷居が高く感じるけれど、分かると結構簡単ですよね。


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照見五蘊皆空(ショウケンゴオンカイクウ)


五蘊とは色・受・想・行・識の5つです。


この宇宙は五蘊で出来ていて、全ての物は「空」から生じている。


そしてその「空」から全ての厄災が出来ている…と言っています。


簡単に言うと、我々が存在すると思っている肉体を含めたこの世の物質から、我々の感覚器(5感)、思考や感情は全て五蘊で出来ており、それらは全て存在しないのだから、我々は幻のような存在なのですよということです。


この世は幻というお話はヨガのレッスンでもいつもご説明していますので理解しやすいのではないでしょうか。


この「空」はサンスクリット語ではアカーシャと言い、空間のことです。

無からは何も生まれません。

まずは空間なくして何も存在し得りませんので、空は無とは違います。


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度一切苦厄(ドイッサイクヤク)


「度一切苦厄」とは一切の苦厄を度す。

人はこの世に生まれて老い、時に病気で苦しみ、愛する人と別れ、誰かを憎み、求めたものを得られず苦しみ、そして死の苦しみを体験します。

私たち人間社会で我々にとって「自己存在」は大切ですが、自分に執着することで、人と自分の違いを見て苦しみも生まれます。

「空」を観る境地になればこの苦しみから離脱できるよと般若心経は言っています。

「空」とは先ほども述べたように五蘊です。


そこに存在しているのに存在していない、物質も意識も全て含めて「空」。

自分を含めて「空」なのだから執着してもしょうがないです。




この世との関わりは「あったら嬉しいけれども、なくても平気」。

執着は怖れや苦しみも生みますから、このくらいの気持ちが大事ですね。


ただ、いつもレッスンで言っている事ですが、執着する必要がないと言って肉体をないがしろにするのもいけません。
「どうせないんだからいっか~」ということとは違います。

般若心経はしっかり行を積んだ上で最後の悟りの為に「空」を論じているのです。

まず大切なことは健全な自己の確立。

肉体と心の浄化もおろそかには出来ません。


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最後は

ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーぢーそわかー

・・・で終わります。


このくだりは聴いたことあるのじゃないのでしょうか?

耳なし芳一かなんかのお話で出てくるかな。(耳なし芳一も般若心経を唱えていたんですね)

これは「すべての生きものが幸福であるように」という祈りのことばです。


ヨガのレッスンで言うところの「ロカ サマスタ スキノ バヴァントゥ」ですね。


国境も宗教も人種間も越え、人間も動物も植物もみんなの幸せを祈る言葉(マントラ)です。


言葉には言霊がありますので意味を知らなくても、唱えるだけで大変強力です。


マントラをどうぞ身近において下さいね。



はいっ一緒に!

ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーぢーそわかー虹



今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。


ハートから愛をこめてキラキラ