我々の狙いは、真我そのものを把握するにある。
我々が真我を把握する事が出来ないのは、それが自然や肉体と混同されているからである。

一番無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。
これは両方とも間違っている。

なぜ、真我がこういうものと混同されるかといえば、さまざまな波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。
我々はこれらの波を通してしか真我を見ることが出来無い。
波が愛情という波であれば、我々はその波に反映した自己を見て、「わたしは愛している」と言う。
もしも、波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、わたしは弱いと思う。

また、我らの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。
だから真我の本当の性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。
全ての波が静まって後に、はじめて真我は捉えられる。

パタンジャリは(ヨーガスートラで)まず第一に、この波の意味を教え、次にそれらの波動を止め滅ぼすのに最も善い方法を教える。
そして最後に、一つの波を充分に強めて、他の波の全てを抑圧するにはどうしたらよいかを教える。
火をもって火を制する、というやり方である。最後に一つだけ残った波を抑制するのはたやすい。

この一つだけ残った波も消え去った状態が無種子三昧である。ここに至って、何物も心の上に残らないから、真我はあるがままの姿であらわし出される。
この時、我々は真我が宇宙において永遠に純一なる存在であり、生まれもせず死にもしない不死、不壊、永久に生きる、知性の本質であることを知るのである。

ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)


1月9日、ヨーガスートラを紐解く真理のヨガワークショップを開催いたします!


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