横浜、金沢八景に来て1年になりました。
ようやくコロナ問題も収束し、感染症での扱いが5類に移行し、真冬と到来があっても世間は落ち着いて良かったと思います。
昨年末に、世間のコロナ騒動で自分の1996年から長く行っていたフィットネス・スポーツクラブ事業(今年2024年で28年間です)は大打撃を受け、
23年間過ごした港北区でも人口が多いこともあり、制約が多く、教室運営をしていた練習場も、
3ヶ月間使えず、再開しても、会員さんが外出を恐れて、参加者が減ってしまいました。
練習場のオーナーからも、「真冬の寒気の中でも換気」という指示を受け、場内は冬はとても寒く、かえって逆効果になり、
年配の皆さんが身体を冷やしてしまい、心配になっていました。
幸い、感染者はなく、私自身の本領発揮ということを意識して3年間は耐えましたが、やはり昨年までの3年間は長すぎました。
自分の人生での、イノベーションを考えに考え始めました。
元々、私は東京都の狛江市というところで生まれ育ち、途中大学進学で板橋区に下宿して、実家が府中市に移ることになり、
府中市へ転居しました。
1982年〜東京都日中友好協会太極拳委員会の調布教室に通い、1984年に東京都代表で16歳で、「第1回全日本太極拳・中国武術表演大会(現:全日本武術太極拳選手権大会)」に出場しました。
大会期間で知り合った選手の方から、全日本太極拳協会を紹介されその年の秋から移籍しました。
そこで中国上海から来日されていた恩師の杜進老師に師事し、本場中国スタイルを学び始めました。
(杜進老師に、2017年に再会しました)
協会の方から1985年に上海体育学院での研修を紹介され、2週間ほどはじめて中国大陸の土地を踏みました。
帰国後に杜進老師から、大きく評価を受け、協会でのエリート選手チームの仲間入りが出来て、
とにかく一所懸命に修練に打ち込みました。
当時の日本国内では、とても大きなムーブメントがあり、第1回大会〜第3回大会までは会場が満席になるほどの人気でした。
1986年に個人ビザが降りることになり、練習仲間の友人と2人ではじめて通訳なしの単独修養の旅に出ました。
中国語会話の本を片手に、2回めの上海、はじめての安徽省合肥市にある安徽省体育運動技術学校・体育一大隊に杜進老師からの紹介され、入隊を許され、現地本場の専門集団で訓練を受けることが出来ました。
安徽省は、とても長閑で人々も優しく、武術隊の皆さんや老師の皆様は、とても温かく迎えてくれました。
そして帰国後に川崎ではじめて”武術太極拳”の呼称に変更し、日本武術太極拳連盟が創設され、第3回大会が開催されました。
そこで初めて6位入賞でメダルを初獲得しました(予選では3位、決勝でラインアウトで6位)
当時は、月刊誌があり「”武術 うーしゅう”」「中国武術」が創刊されていて、私も大会報告の記事で紹介され、
名前が知られるようになりました。
そこからは、毎年の大会で中国選手のように日本でも修練し、名物選手のような存在になりました。
大会は、2000年まで出場し、その後は30歳で、東京都武術太極拳連盟の評議員という運営役員に抜擢されました。
東京都大会、全日本大会の運営に携わり、裏方仕事を担当していました。
1989年の早い時点で、連盟公認1級審判員に合格しましたが、後に方向性が私自身の信条が合わなくて一度も連盟では大会審判員を担当せずに退任しました。
2001年は第1号の強化コーチの任命を受けましたが、2年で退任しました。
やはり、日本国内的なスポーツ協会のシステムや方向性が私には性格的に合わなかったのでした。
私自身は、自分の経験で「全員、誰でも開かれたチャンスが認められ、組織的な心付けのない活動環境」を望むことが、周囲とのコンビネーションや人間関係に不適格と感じて、新しい活動の展開を始めようと「横浜武術院」を立ち上げて、後代にも、開かれた本場の「中国武術、太極拳、健身気功の活動」を紹介できるように毎年に大会ツアーや研修ツアーを行い始めて、
私の中国の師や兄弟子との再会を兼ねた交流ツアーで新しい活動を始めました。
そのことが、伝統中国武術文化、養生文化の学びにも繋がっていきました。
2020年1月から、コロナ問題が起こり、世界では「分断:デカップリング」が起きてしまいました。
1985年〜2019年まで34年間継続して来た民間交流活動と交流ビジネスは、断絶してしまい、中国の先生方も皆さん多くが引退してしまいました。
コロナ期間で、主に新聞報道から詳細を調べ、インターネット情報の数々から分析し、
考えに考え抜いた末に、活動の目的と方向性の全部をイノベーション:一大改革へと意識を切り替えました。
そこで直感で思ったことは横浜武術院は継続したい、しかしながら活動拠点が今現在東京に一番近く都会計画バブル化を進めてしまっている港北区では自身の性格や、将来的な方向性では不適当に感じました。
元々は、東京都に生まれ育ち、職場は新宿区や千代田区紀尾井町で社会に揉まれ、1995年ぐらいから「リストラ:リストラクチャリング」というムーブメントに飲み込まれ、都会から離れようと決意して、
フィットネス・スポーツクラブ運営会社の副社長さんからスカウトを受け、就職し勤務したのが港北区綱島地区の「オアフクラブ綱島」でした。
そこで港北区の綱島地区に通勤が疲れるので、単身引越して当時は穏やかだった港北区が気に入って横浜市民に転移して、後にスポーツクラブ運営会社の毎日スポーツ企画が計画倒産を仕掛けて、私自身は、また0から始めることになり、
当時のクラスの会員さん達を引き受けて横浜武術院を立ち上げて、私はそれ以外に東京方面と横浜の港南区に指導で周りました。
当時は失職して半年ほどで、立ち直りましたが、コロナ期間、今でもスポーツクラブ運営会社、業界は火の車状態です。
そこで考えに考え抜いて、横浜市に転居して、一番好きだったのは、鎌倉と金沢文庫と潮干狩りで来た金沢八景の地でした。
京急線に港南区の教室で往来するうちに「京急グループはSDGsプロジェクトを推奨します」という電車内のポスターを見ているうちに、自分も住まいやライフワークは穏やかな土地に居住し、仕事は用事のある時に都会などへ出たり、インターネット上で完結する、というライフラインに移行しようと決意して、
一番好きな長き歴史ある金沢文庫と金沢八景、隣町の六浦に隣接する土地に活動拠点を移しました。
理由は「サステナブル:持続可能:継続は力なり」を行うことでした。
この1年が過ぎて、本当に良かったと思っています。
以前の指導拠点は土日に集約し、港北区に指導へ行っています。
そして金沢区では、新しい教室を3クラス(金曜日午前、屋内会場2つで週2回ずつ、毎週火曜日午前野外、月1回日曜日午前野外)でスタート出来ました。
金沢区の皆様には本当に感謝しております。有難うございます。
お陰様で、私は本籍地は埼玉県深谷市で、かの地が輩出した英雄は、鎌倉武将の鑑「畠山重忠」資本主義の父、今年2024年7月から新紙幣の肖像画「渋沢栄一」がおります。
畠山重忠は、隣町の金沢文庫で自転車で称名寺の裏手の15分ぐらいのところに領地があり「東光禅寺」を創立し、家族で住んでいた歴史を知り、驚きました。
様々な家系のゆかりの縁ある土地に出会えて、とても光栄に感じています。
(※思うことがあり、中国武術(太極拳、健身気功、修養で30年で、原点回帰で、自身の日本剣術の修養を2012年より開始していました)
そして小学生剣道修練時代は、「暴れん坊将軍」が好きで徳川吉宗に憧れていました。
驚いたのは、現在野外太極拳を行っている野島公園は徳川家康の10番めのご子息、徳川頼宣の住んでいた土地だと知りました。
徳川頼宣の孫が吉宗でした。
徳川家康も、出自の源氏を崇敬し、瀬戸神社や龍華寺を参詣していて、静養に江戸から金沢八景によく来ていて逗留していたことも、この地に住んでから、寺社巡りをして、地域の御由緒で知りました。
感動です。
正直、長く中国大陸と本場の武術界、太極拳界、伝統華佗五禽戯などの健身気功とのパイプが強すぎて、自分の日本での晩年が見えていないことにコロナ期間で気づきました。
金沢区へ来て、自分自身の生い立ちや影響を受けていた、少年時代の鎌倉武士、自身の出自での源氏への憧れ、
そして本場中国大陸での学びも終え、どのような晩年を生きていけばいいのか、そんなことを50代に入り、考えていました。
「中国は遠くになりにけり」それも宿命だったようです。
それが、この金沢八景、金沢文庫、鎌倉での暮らしが、僕に新しい息吹きを吹き込んでくれました。
今は、ひと段落して、中国とのゆかりある金沢区の地に馴染んで、休みの日があれば自転車に乗り、海に出て気儘な釣り三昧、釣れた新鮮な魚は、有り難く食卓で美味しく頂きます。
海、山、川に恵まれた歴史ある土地に辿り着つけて感謝しております。
三浦半島の入口が金沢区では、食材も新鮮で魚も野菜も素晴らしいものばかりです。
コロナ問題でも「恐れず、怯まず、囚われず」私自身はこの4年間、危なげなく、健康元気に前向きに意識して乗り切りました。
人生100年時代に、これからのライフワークで、とても大きな自信と安心感が出来ました。
これからも、よろしくどうぞお願い致します。
有難うございます、感謝!
※どなた様でも、気軽にレジャー感覚を含めて、ご参加をお待ちしております。
※横浜武術院ユーチューブチャンネル
私はユーチューバーではなく、私が中国大陸で学んだ技法の解説や、日頃のレッスンでの理論講座や、新しい横浜武術院での活動内容での方向性や、存在意義などの近況方向で使わせて頂いています(おそらく唯一、日本国内で内容的な水準は他に真似が、一切できないと確信しています
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