第七十五回

 

関雲長 骨を削って毒を療し

 

呂子明 白衣して江を渡る

 

ある日、江東より小舟で来て、そのまま陣中へ乗り込んだ者がある。小頭がこれを関平引き合わせたのを見れば、四角の頭巾にゆったりとした上衣を着て腕に青いふくろをかけ、自ら沛国 譙県の郡の華佗、字は元化と名乗って「関将軍は天下の英雄、毒矢を受けたと聞き、お手当をいたしに参った」と語った。

 

そこで関平が「先年、東呉の周泰の傷を療治されたのは、御身でござるか」と問えば、華佗は「いかにも、さようでござる」

 

関平は大いに喜んで、すぐ参謀たちに引き合わせ、諸将ともども華佗を案内して本陣に入った。関羽は肘の痛みに耐えかねていたが、士気への影響を気遣い、せめてもの気晴らしに馬良と碁を囲んでいるところであったから、医師が来たと聞き、すぐ通させた。挨拶が済み、関羽は座をすすめて、茶を出すと 華佗は肘を拝見しようと言う。関羽は肌脱ぎになり、肘を差し伸べて華佗は見せた。

 

華佗「これは石弓の矢傷ながら、トリカブトの毒を用いたと見え、その毒が骨にまで染み込んでおりまする」すぐに療治いたしませねば、この肘はきかぬようになりまするぞ」

 

関羽「手当は何を用いる」

華佗「それがし、一つの法がござる。尻込みなされませぬかな」

関羽は笑って「わしは死をも恐れぬ、何で尻込みしようぞ」

華佗「それならば、奥まったところに柱を立て、柱に大きな輪を打ち付け将軍の肘を その輪に通し、縄で縛った上、夜具で顔を隠して頂きまする。それがし、鋭い小刀で肉を切り開き、骨についた毒を削り取った上、薬を塗り、糸で縫い合わせれば大丈夫でござる気後れ召されませぬかな」

関羽「それは、容易いこと。柱も無用じゃ」

と笑い酒席を設けもてなした。

 

関羽は五、六杯飲むと、また馬良に碁の相手をさせながら、肘を差し出して華佗に切り裂かせた。華佗は鋭い小刀を手にし、小頭に大きな鉢で肘の血を受けるように言いつけると、「さ、切りますぞ。お心静かに」

 

関羽「良いとも、切れ。思い通りに手当して下されい、わしは世の凡人とは違うぞ」

 

そこで華佗が骨のところまで肉を切り開くと、果たして骨は青くなっていた。小刀で骨を刮げる ぎしぎしという音に、並み居る者は真っ青になって顔を覆ってしまった。

 

しかし関羽は、酒を飲み肉をつまんで、平然と談笑しながら碁に打ち興じ、苦しい顔ひとつしなかった。

 

見る間に血が鉢いっぱいに流れたが、華佗はすっかり削り取ると、薬を塗り糸で縫い合わせた。関羽はからからと笑って立ち上がり諸将に向かって、

 

「元通り、肘を曲げも伸ばしも出来、何の痛みもなくなったぞ。先生はまことの名医じゃ」と言えば、

 

華佗も感じ入って「それがし、医師を業としてより、かような有様ははじめて見まする。将軍はまことの天神にいらせられます」

 

後の人の詩にいう、

 

病を治するに須 内外科を分かれども

世間の妙芸 苦に多きなし

神威に及ぶこと罕なるは ただ関将軍のみ

聖手よくするは華佗を説く

 

関羽は矢傷の治療を終えて嬉しげに笑い、席を設けてもてなし、懇ろに礼を述べた。

 

華佗が言う「矢傷は癒えましたが、ご自重が肝心。ご立腹は傷の大毒でござります。百日経てば、すっかり平癒いたしましょう」

 

関羽は謝礼の黄金百両を差し出したが、

 

華佗は「それがしは、将軍が天下の義士と知って、お手当に参ったもの。礼物など目当てではありませぬ」

 

と固く辞退して受け取らず、塗り薬を一包を残し、暇乞いをして帰っていった。

 

 

 

第七十八回

 

風疾を治さんとして 神医 身死し

遺命を伝えて 奸雄 数終わる

 

「わが君は、神医華佗をご存じでござりましょうか」

曹操は「江東の周泰を療治したという男か」

華「いかにもそれでございます」

曹操「名は耳にしておるが腕前の程は知らぬ」

 

「華佗は字は元化と申し、沛国 譙郡の者にござりまするが、世にも稀なる妙手にて、病人があれば、或いは薬、或いは鍼、或いは灸を用い、手を下せば、たちどころに治します。五臓六腑で薬のきかぬものは、しびれ薬を飲ませて、病人が暫しの間に酔いつぶれたように前後不覚になりました時、鋭い小刀でその腹を割き、煎じ薬で臓腑を洗いますが、病人には少しの痛みもござりませぬ。洗い終えると、切り口を糸で縫い合わせて粉薬を塗るのでございますが、一ヶ月あるいは二十日で元通りになります。その神業ぶりは、ざっとかようにございます。

 

甘陵の相の夫人が身ごもって六か月め、腹が痛んで困っておりました。華佗がその脈を診て調べていった。

「この脈は男の子だが、死んで大分に時がたった。手当せねばならぬ」

とそこで飲み薬で降ろしたところ、はたして男で夫人は十日たって全快しました。

ある日、華佗が歩いていると、人のうめく声を聞いて、「これは通じがない病気じゃ」と言い、たずねてみるとその通りであった。

蒜をつぶした汁を三升分飲めば治る」と教え、その男が家に戻って言われたとおりにすると二、三尺もある蛇を一疋吐き出して、すぐさま通じがつき、蛇を持って華佗の家へ礼に行きましたが、子供が案内に出、」その患者がよく見ると、壁に数疋の蛇がかけてあった由にございます。

 

広陵太守の陳登が病気にかかった。胸もとがつかえ苦しく、顔が赤くなり食事も出来ず華佗に療治をたのんだ。華佗は「胸に虫が何升もいて、体内で腫れものができかけております。生物をお食べになったからでござりましょう」と言って薬を飲ませると、顔がびくびく動いている虫を三升もほども吐き出しました。

陳登がわけを問うと「生魚をたくさん食べたため、毒にあてられたのでござる。今日は全快はしたものの三年すれば必ず再発します。それは救いようがない」と答えましたが、陳登ははたして三年目に死にました。

 

またある人が眉間に瘤ができて、かゆくてたまらぬため華佗に見せました。「この中に、飛ぶものがいる」と言うので、人々みな笑いましたが、華佗が小刀で切り割くと、黄雀が一羽飛び立って行き病人はたちまち治ってしまった。

 

またある人が犬に足の指を噛まれ、そこから肉の塊が二つできて、一つは痛く、一つはかゆく、困っておりました。

華佗は「痛いほうには針が十本、かゆい方は碁石が二つ入っている」と言うので誰も信じませんでしたが、華佗が小刀で切り開くと、果たして言うとおりでございました。

この者は扁鵲、倉公に類うべき名医にござります。

いま金城に住まい、ここから遠くはありませぬ。わが君にはお召し出しなされぬか」

 

曹操はすぐに人をやって、昼夜兼行で華佗を請じて来させ、診察させた。

華佗の言うよう「殿下の頭痛は風病のためでございます。病根が頭の中にあって、風涎の出どころがありませぬゆえ、いかほど煎じ薬を服用されても、治すことはできますまい。それがしに一つの法がござります。先ずしびれ薬を飲んで、鋭い斧で頭を切り開き風涎を取り出せば病根を除くことができまする」

曹操は大いに立腹した「きさま、わしを殺そうというか」

華佗「殿下にはお聞き及びではござりませなんだか。関公が毒やにあたって右肘を負傷なされ、それがしが骨を削って毒の手当をいたしましたが、いささかも恐れる気色はござりませなんだ。それにくらべて殿下のこの病はいささかなこと。お疑いには及びませぬ」

曹操「だまれ、肘の痛みなら骨を削るのはよかろう。頭を切り開いてなろうか。きさまは、さだめし関羽と馴染み深く、この機会につけこんで仇を討とうというのであろう」と左右のものを呼んで、牢にぶち込み拷問してはかせるよう命じた。

 

賈詡が「かほど世の類なき名医に、害を加えてはなりますまい」と諌めると、曹操は「こやつは折りをみて、わしを亡きものにせんと企み。吉平の二の舞いであろうがな」と息巻き、きびしく責めさせた。華佗は責め苦に堪えかねて、魏王を殺害する計画だったと、身に覚えのないことを白状した。

 

華佗が牢屋にいたとき、呉という姓の牢番がいて、人々はみな呉押獄と呼んでいた。この人は毎日、酒食を差し入れたので、華佗はその情に感じ「わしは間もなく非業の死をとげるが心残りなのは青嚢書をまだ世に伝えぬことじゃ。そこもとのご厚意かたじけなく思うておるが、恩に報いようもない。わしは手紙を書こう。そこもとは、わしの家へ人をやって手紙を届け青嚢書を取ってこさせるがよい。書物はそこもとにお贈りして、わしの医術を継いでもらおう」と告げた。

呉押獄は「その書物をいただけましたら、こんな役目はすぐにやめてしまい、天下の病人を治して先生の徳をお広め申します」と大喜びした。

 

華佗はすぐさまに手紙を書いて呉押獄に渡し、呉押獄に渡し、呉押獄は金城に直行して華佗の妻から青嚢書を受け取ると牢屋に戻って華佗に渡した。中をよく調べて見て、華佗はすぐその書物を呉押獄に贈った。呉押獄は家へ持ち帰ってしまっておいた。

 

十日して、曹操はますます重く、華佗はついに牢内で死んだ。

呉押獄は棺を買って納めてしまうと辞職して家へ戻り、さて青嚢書を取り出して学問をしようと思ったが、見れば妻が焼いている最中であった。

呉押獄は仰天し、あわててひったくったが全巻は既に焼き崩れて、一、二枚残っているだけであった。呉押獄は妻をののしったところ、妻が言うのに、

「たとえ華佗と同じくらいの名医になったところで、牢屋で死ぬのが、おちというのじゃ、何の役に立ちます。それで焼きすてましたよ」

呉押獄は「わしがあの神業の術を継げぬばかりではない。後世ながく見る人が少なくなった。惜しいことだ」と溜息つくばかりであった。かくて「青嚢書」は世に伝わらず、伝わっているのは、鶏や豚の去勢法などくだらぬものだけで、つまり残った一、二枚に記してあったことなのである。のちの人の感嘆した詩にいう、

 

華佗の仙術 長桑(古の良医)に比し

神識 垣の一方を窺うが如し

惆悵す 人は亡せ書もまた絶えて

後人 復た青嚢見ること無きを