魏の太祖(曹操)は、評判を聞いて華佗を召し寄せ、華佗は常時 太祖の側の侍ることになった。太祖には頭痛の持病があって発作がおこると、いつも心が乱れ目も眩んでしまうのであった。華佗が横隔膜に鍼を打つと、打つそばから苦痛が引いていった。

「華佗別伝」にいう。ある人が病気で両足がなえて歩行ができなくなった。

 

輿で運ばれて華佗のもとを訪れたが、華佗は離れた場所から見ただけでいった。「もう十二分に鍼や灸を行い、薬も飲まれた。

 

脈を視る必要はありません」そこで衣服を脱がせると、背中に数十箇所印をつけた。

 

それぞれの場所はあるいは一寸間隔、あるいは五寸間隔と、縦横ばらばらであった。そしていうには、これらの所にそれぞれ十回ずつ灸をすえるように、灸のあとが治った時には歩けるだろう、と あとで見てみると、灸のあとは脊髄をはさんでちょうど一寸、上下の間隔も列もまっすぐにそろっていて、墨縄で引いたようであった。

李将軍(李通)の夫人が重い病気にかかった。華佗を呼んで脈を視させたところ、いうには「流産をされて胎児が降りておりません」


将軍がいった「実をいえば流産をして、胎児はもう降りたのだ」華佗がいった「脈によれば、胎児はまだ残っております」

 

将軍は、そんなことはない、といい張った。華佗はそのまま去り、夫人もやや良くなった。

 

百日あまりで再発し、もう一度華佗を呼んだ。華佗がいった「この脈はあい変わらず胎児が残っているためのものです。もともと双子が生まれるはずであったのです。一人の児がまず出ましたが、そのときの出血がおびたただしくて、後の児はまだ生まれることができずにおりました。母親には、それがわからず、そばの者も気がつかず、迎え出すことをしなかったので、結局 生まれることができぬままになりました。胎内の子供は死亡し、血脈がもとに戻っておらぬため、きっとひからびて母親の脊髄に固着し、そのために脊髄にしばしば痛みを引き起こすのです。今煎じ薬をお飲ませし、同時に鍼を一つ打てば、この死んだ胎児は必ず出て来ます」薬を飲ませ鍼を打つと、夫人はあたかも出産の時のようにひどい陣痛を訴えた。華佗がいった「この死んだ胎児は久しくひからびていたので、自然に出ることができません。誰かに探り出させる必要があります」はたして一体の死んだ男の胎児が探り出された。手足はそろっており、色が黒く、身の丈は一寸ばかりであった。

華佗の絶妙な腕前は、おおよそ以上のようなものであった。しかし彼は、もともと士人(庶民より上の身分の者)であったのに、医者としてしか遇されぬところから、常々 心にくやしく思っていた。のちに太祖が天下に号令するようになったあと、重病にかかったことがあって、華佗一人に診察させた。

 

華佗がいった「これを完治させるのは、ほとんど不可能です。

 

たえず治療に努められれば、ご寿命を延ばすことができます」華佗は久しく家から離れたままで帰りたい情がつのっていたので、この機会をとらえていった「家にある書物と処方が必要でございます。それを取ってすぐ戻ってきたいと思います」

 

家に帰ると、妻の病気を理由に、たびたび休暇の延長を願って戻らなかった。太祖は幾度も手紙を送って呼び寄せようとし、さらに群や県の役所に命じて彼を強制的に戻らせようとした。華佗は自分の腕前をたのみ、他人の禄をはむことをいとって、どうしても家を離れようとしなかった。太祖は大いに腹を立て、取り調べの使者を送った。もし彼の妻が本当に病気であれば、小豆四十石を下賜して、休暇の期限を延ばしてやるように、もし嘘であれば、すぐさま捉えて護送するように、との命令を使者は受けた。

 

このようにして(嘘が知られ)華佗は早馬で護送されて許の獄につながれ、調べを受けて罪状を認めた。

 

荀彧が命乞いをしていった「華佗の腕はまことに巧みで、人々の生命も彼の腕一本にかかっております。よろしく大いに大目にみて赦してやってくださいますように」太祖がいった「心配するな、天下にこんな鼠のごとき輩が他にもいないことがあろうか」こういうと華佗を厳しい拷問にかけた。華佗は死に臨んで、一巻の書物を取り出すと獄吏に与えていった「これで人の生命を救うことができる」獄吏は法を畏れて受け取ろうとしなかった。

 

華佗も強いて押しつけようとせず、火を求めてその書物を焼いてしまった。

 

華佗の死後にも太祖の頭痛は完全には治りきってはいなかった。太祖はいった「華佗には、これを治すことができた。あいつめは、おれの病気を完全に治さずにしておいて、自分が重んぜられるよう計っていたのだ。だから おれがあいつを殺さなかったとしても、結局 おれのこの病気の根本から取り除いてはくれなかったに違いない」後にかわいがっていた息子の倉舒が危篤になった時、太祖は嘆息していった「華佗を殺してしまったことが残念だ。そのために、この子をむざと死なせることになってしまった」

またある時、軍の役人の李成が咳に苦しんで、夜も寝られず、時には、血膿を吐くことがあった。華佗に尋ねると、華佗はいった「あなたは腸の腫れものの病気があるのであって咳と共に吐くのは、肺から出たのではありません。

 

あなたに二銭(重さの単位)の粉薬を差し上げます。きっと二升あまりの血膿を吐くでしょうが、そのあとによく養生すれば、一ヵ月で起き上がれるようになり、気をつけて自愛されれば一年で健康になれます。十八年後にまた再発がありますが、この散薬を飲めば、またほどなく治ってしまいます。もしこの薬がないと、きっと死ぬことになるでしょう」そういってまた二銭分の散薬を与えた。李成はその薬をしまいこんでいた。五、六年も経った頃、親戚のうちに李成と同じ病気にかかった者がいた。その者が李成にいうには「おまえは現在のところ壮健だが、私の死は目前だ。どうして情知らずにも すぐには入用ではないのに薬をしまいこんだまま私を見殺しにするのか。まず私に飲ませてほしい。私が治ったあと、華佗からもう一度もらってきてやろう」李成は薬を与えた。病気が治ったあと約束通りに「華佗のいる」譙まで出かけていったが、ちょうど華佗が捕縛された時で、慌ただしい事情のうちに薬をもらうことができなくなってしまった。十八年経って、李成の病気は結局再発し、飲むべき薬がないまま、死ぬことになった。

「華佗別伝」にいう、ある人が、清龍年間(223~237年)のこと、山陽太守の任にあった広陵の劉景宗に会った。劉景宗が話すには、中平の時代(184~189年)にしばしば華佗と会ったが、彼の治療や脈をとって病気を探る腕前は、みなよく適中して、あたかも神のようであった(たとえば)瑯邪の劉勲が河内太守となったときのこと、二十に近い娘がいて、左足の膝こぞうに腫れものがあり、かゆいけれど痛みは感じなかった。腫ものがひいても、また数十日で再発し、こうしたことがもう七、八年も続いていた。華佗を迎えて診察してもらうと、華佗はいった「これを治すのは簡単です。米糠色の犬一匹と良く走る馬二頭が必要です」縄を犬の首につなぎ、馬に犬を引いて走らせ、一匹が疲れると すぐさま別のの替えた。馬が合わせて三十里余りも走ると、犬は歩けなくなった。今度は人が犬を引っ張って歩き、前と合わせて五十里近くになった。そこで薬を娘に飲ませると、娘はすぐ すやすやと寝入って人事不省になった。そうしたうえで大きな刀子(ナイフ)で犬の腹を後ろ足に近い所で切りおとし、その切り口を腫れものの口に向け、二、三寸ばかり離しておいた。そのままでしばらく経つと、蛇のようなものが腫れものの中から出て来た。すかさず鉄の椎を用いて蛇の頭を横ざまに串刺しにした。蛇は皮膚の下で少しの間うごめいていたが、やがて動かなくなった。そこで引っ張り出してみると、長さは三尺ほど、本物の蛇にそっくりであったが、ただ目がある所に瞳子がなく、また鱗が逆さまに生えていた。塗り薬を腫れものの塗ると、七日で治った。

また(たとえば)ある人が目まいに苦しみ、頭を上げることができず、ものを直視することができないまま、何年にもなっていた。華佗はその人を素っ裸にして、頭を地面から一、二寸離したまま、濡れた布で身体をくまなく拭かせた。血管がみな五色の彩を発するのを見定めて、華佗は弟子たち数人に指図してメスでもって血管を切らせた。五色の血が全部出てしまい、赤い血が出るのを見届けると、病人を降ろし、膏薬をつけマッサージをして その身体をふとんで覆った。汗が全身から くまなく出ると、亭歴犬血散(粉薬の名)を飲ませた。病気はその場で治った。

また(たとえば)長年の間、病気で苦しんでいる婦人があった。普通に寒熱注病と呼ばれている病気である。冬の十一月のことであったが、華佗は病人を石の槽の中に座らせ、朝早く冷水をその中に汲み込ませ、必ず百杯まで続けるようにと命じた。最初の七、八杯で病人は震えあがってもう死にそうであった。汲み込む者は心配して、そのまま よそうとしたが、華佗は百杯になるまで続けるようにいった。八十杯にもなろうとするころには、熱気が蒸気となって立ちのぼり、もうもうと二、三尺の高さまで上がった。百杯になると。華佗は今度は火を燃やして寝台を温め、その上に病人を寝かせ厚くふとんをかけさせた。やがて汗がびっしょり出ると。粉薬をはたいた。汗が引いた時に病気は治っていた。

また(たとえば)ある人が、腹の病気で、片側だけがひどく痛み、十日ほどのうちに髷も眉も抜けてしまった。華佗がいった「これは脾臓が半分腐っているので、腹を割いて治療せねばなりません」薬を飲ませて寝かせると、腹を切開して内部を直接窺った。脾臓ははたして半分腐っていて原形を留めなかった。刀子で患部の肉を切り取り、膏薬を傷口に塗り込み、そのあと薬を飲ませると、百日で平癒した。