日本の太極拳関係者はあまり興味を持っている人が少ないのですが、

 

近年に話題になった太極拳士には「アリババグループ」の「ジャック・マー 馬雲」さんがいます。

 

 

 

 

ジャック・マーは「太極拳」から経営を学んだ

 

 

 

 

 

 

歴史文化的に「正しく太極拳を練る」ということは「太極拳経」とも称される「太極拳論」に則った練功があってこそ、

 

「功夫:時間、能力、腕前」が向上し、心身の活性化も同時に得られていくものなのです。

 

「太極拳論」口語訳

 

 宇宙の根源を太極という。 太極はもともと無で、動静のきっかけ、陰陽の母である。 ひとたび動けば千変万化を生み、静まればもとの無に帰る。 この自然法則に逆らうことなく、太極拳の技は過不足なく、相手の曲に従って伸ばす。 相手が力強く己が小力の場合は、逆らわずに流すこと、これを走という。 己を有利な立場におき、相手を不利な方向や体勢におくことを粘という。 相手が速く動けば、自分も速く動き、人がゆっくり動けば、こちらもそれに従う。 千変万化すれども、そのもとの道理は一つである。

 

 型の積み重ねの稽古により、はじめて「勁」がわかり、「勁」を理解することによって太極拳の極意に到達する。しかし、長い稽古を経なければ、この境地に達することはできない。

 

 無念無想で気を丹田に沈め、姿勢を正しくすれば、相手の左右の虚実を察知し、相手の高低の誘い技をも知り、さらに相手の進退をもわかるというふうに、相手の動きに応じた自由自在の変化ができる。ごく軽やかな羽やハエさえも身に触れさせない。 人が己を知らず、己が人を知れば向かうところ敵なしである。

 

 武術の流派も多く、その型(技)も多様だが、おおむね強い者が弱い者をいじめ、技の快い者が技の遅い者を負かすだけのことである。 力ある人が力なき人に勝ち、遅い人が速い人にやられる。 こんなことは自然の能力であって、稽古を積んで得られることではない。 見たまえ、ごく小さな力で重いものをはねのけることができるのは、あきらかに力で勝てるものではない。 また、老人が大勢に勝つことができるのも、老人の技が速いから勝てたのではない。 なんと痛快なことであろうか。

 

 立てば平準の如く。 動けば車輪の如し。 偏き沈めば動きは崩れ、双重であれば動きが滞る。 何年稽古をしても、応用できなければ、ことごとく人にやられてしまう。 これは「双重の病」を悟らないからである。 もしこの病を避けようとするならば、すべからく陰陽を知らなければならない。 粘は走であり、走もまた粘である。 

 

陰陽は不離であり、相済けてはじめて勁を悟る。 勁を心得て太極拳を練れば、ますます理解が深まる。 そして黙々と修練を重ねると、しぜんに妙味を会得することができる。 本来は、心を無にして相手の出方に応じるべきものだが、多くの人は誤って近きをすて、遠きを求めている。 心構えのわずかな差が、修練に千里の隔りをもたらす。 太極拳を学ぶ者は、このことをしっかりわきまえなければならない。

 

 

 

 

 

「ジャック・マー:馬雲」さんは私の5歳上、

 

何かしら、いろいろと今時代の流れを思うことがあります。

 

今年の新春の来訪はもう少しです。

 

日本の若者たちも、新時代21世紀を生き抜くのに「太極拳」を行いながら、

 

陰陽五行思想や、老荘思想に学び、

 

頑張って欲しいと願っています。