今年2016年は、私にとって生涯の記念に残る、「武術事業達成年」になりました。
今年を以て「上海復旦大学武術協会 日本支部」「上海龍身蛇形太極拳 日本支部」「伝統華陀五禽戯協会日本普及部」の武術系、太極拳系、伝統健身気功系の3部門での、
正式な日本活動支部となり、
そして2013年から始まった、
「香港国際武術大会 中国武術段位制 国際考評 名誉主任」
今年から上海武術協会と提携した「中国武術文化交流大会 運営プロデューサー」を担うことになりました。
来年からは新時代の日本国内での中国武術の活動全般へ、より力を入れ後代のための大きな発展と繁栄のために尽力します。
そして、
やはり、私自身の武術経歴の中で「この際」にはっきりさせておきたいので、これから記述致します。
私は1982年の東京都日中友好協会太極拳委員会の運営する教室で、武術活動が始まり、
1984年に全日本太極拳協会 東京太極学院 東京武術隊 1997年~ 東京都武術太極拳連盟 評議員 1999年~日本武術太極拳連盟 武術強化コーチを経て、
2000年12月に離職してから、
2001年4月に横浜武術院を創設し今日に至ります。
私の行う「太極拳」は「陳家溝式太極拳」「龍身蛇形太極拳」「孫式太極拳」
そして中国武術旧段位制における、楊澄甫式太極拳の流伝から、中国武術協会で編纂された「8、16、24、32、42式太極拳」
単練、対練、析招、そして推手。
思想哲学としては「太極拳譜」「太極図説」「易経」からの陰陽学説を具体的実践、の具体的根拠での運動理論としています。
そして太極拳運動としての「武芸」「養生」「思想哲学」
を受けた「運動体系」「運動規律」「運動法則」を、
伝統中国文化の根幹になっている「天人合一思想」に則って実践し、普及活動を、
一民間組織として行って来ました。
今年「2016年」は世界全体でのムーブメントは「新秩序」が動き出した「年」
私たちも、これからの未来を明るくする原動力となる、その新時代秩序のムーブメント勢力と同様の意識を有しています。
そのことで、
しかしながら今現在にある「旧世代秩序型」の日本国内での、かつては私も共に運営に携わりましたが、
やはり、厚生労働省と企業の複合体の起こした「医療問題」現代日本社会を代表することにありがちな、行政をも巻き込んだ「運営責任」での「負の遺産」について言及しておきたいと思います。
ここから先は、私の武術活動の信念にある、
「道家思想的心性」「儒家思想的規範性」「仏家思想的解釈性」を貴び、
私のすべての根幹にある、
「信:人(にんべん)と 言う 合わせてが信」
「誠:言う と 成す が合わせて誠」
「信」と「誠」を通じた武術観点から
文部科学省認可を取り、日本国内での太極拳系の普及においての懸念を感じる「負的遺産」について
私の武術経歴を経た観点から「論評」を致したいと思います。
(※今現在リアルタイムにある中国武術活動界 武術系 太極拳系 健身気功系の修練者の方々への今後の指針での何かの参考になれば、という思いからです・・・)
「太極拳推手の「真」と「偽」
馬 長勲(口述),王 子鵬(整理),石原泰彦(日本語訳)を紹介する」
「太極拳推手の馬長勲老師講習会 成功裏に終了 3月12日~28日に延べ2,200人が参加」
日本武術太極拳連盟HP、より
http://www.jwtf.or.jp/new/160415_05.html
※先ず、最初に申し上げたいのは、この文章全体は長く、構成上、
「太極拳推手の「真」と「偽」
メインは馬 長勲(口述),
つまりは、馬さんのインタビューでの録画か録音での長いものがあって、
王 子鵬(整理),
弟子か通訳か確認ができせんが、王さんの要約があり、
そこで日本語訳をした石原泰彦さんの「3人」からの構成した論文である、というものです。
※私は、技能、理論、指導、実践で、ただの民間組織を運営する一庶民なのですが・・・(笑)
全文は長いので、添削しながら、重要な部分で所感を述べていくスタイルをとります。
この文章形式は、構成する3人の意図の含まれた文章なので、
馬 長勲(口述),王 子鵬(整理)の所感。
石原泰彦(日本語訳)からの所感と思われるもの、の2つと、
太極拳の技法や理論、思想哲学の引用、の2つが複合しているので、
その都度、「言いたいこと」を抜粋しながら、私がこの総評での全責任を持った感想の中で、
いろいろな面での考察をしていきたいと思います。
「太極拳推手の「真」と「偽」の論文の冒頭部分。
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武術の表演は実戦ではない。
本来,「真(本物)」か 「偽(偽物)」か,とか言うものではない。
しかし,太極拳推手の表演ということになると,
「真」と「偽」 は一つの問題であるばかりでなく,非常に致命的な問題となる。
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“傍観者は分からない”
私が公園で生徒と推手をやっていると,
いつも人から“先生,あなたがやっていることは,本物ですか,
嘘(偽)ですか?”と聞かれる。
私はいつも,“これは 嘘ですよ,私たちはただ遊んでいるだけですよ”と応える。
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私の印象に残っているのは,北京の豊台公園で,香 港の復帰を祝う催しがあった時(1997年)のことである。
私の二人の生徒が表演を行い,自分は観衆席に座っていた。
※私のそばの観衆は何と言っていたか。
「こ の2人はもっともらしく,いかにも上手くやっているように見えるね」。
何も知らないで,疑いも持たないことは,不思議なことではない。
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ただし,意識的に,目的を持ってこの種目を否定しようとすると,深刻な結果を招くことになる。
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特に, ある専門家がこのような観点を口にすると,直接,政治指導者の政策に影響を与えることになる。
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「これは先生が生徒をだまし,
先生と生徒が一緒になって観衆をだます ものだ」
と述べた。
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その言葉により,推手表演はそれ 以後停止されることになった。
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※ここまでで、私の所感:
その後は「馬さん」の経歴での所感が長続きするので、「馬さん」に興味ある方はいいが、
それは彼の思い出における「ノスタルジー」でしかないので、
私の、所感では、日本国内での太極拳活動や今後の発展へのアドバイスには、参考にあまりならない。
~略~
“偽”を
本当”真のように”行う時,
<真>もまた<偽>となる。(偽作真時真亦偽)”
道家※ではまた, “<偽>を借りて<真>を修める(借偽修真)”と言う。
時間が経てば,偽も真になるということである。
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※私の所感:
ここに私は、率直に意見を言いたい、
この「問題」で単刀直入でいえば、
「真」は「真」であり、
「偽」は「偽」である。
「偽」が「真」に成れることはない。
願望として、「偽」を「真」にしようと画策し、
詭弁をやたらと述べるのは「誤り」である。
道家思想に触れているが「借偽修真」とあるが、
正しくは「仮真修身」である、
「仮真修身」は「仮」に、崇敬する者やその「象:かたち」の真を借りて、己の手本とし、
実践や習練を経て、そのものに近づき「そのもの」になっていく修練法をいいます。
これは伝統中国文化に、よくある感覚で、
仏家思想では「天上天下、唯我独尊」があります。
それは、己自身が弱者の時候に、
「上に天があり、天の下に我がある」
これは、天の下に身分の上下なく、誰でも、平等で同じ「人」である、ということ、
しかし、その世の中の社会の中で、「不条理」や「理不尽」があり「弱肉強食」のような環境の中に生まれてでも、
「唯我独尊」
「ただ、想いと心を正し続ける、一人であっても、我への尊びは忘れない」
という考えがあります。
そして続くのは、修養における中で、易経にある「自強不息」を実行し、
「自強」になった時こそ「唯我独尊」を達成する、というのが武術思想にあります。
ですから、
この文章にある、
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時間が経てば,
「偽も真になる」ということである。
反対 に,
「もしも、始めのところで根本的に誤っている」と,
浪費した気力が大きければ大きいほど,
その内容は太極拳とは大きく離れたものになってしまう。
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※私の所感:
先ず、感じた時「・・・・」
世の中には、
「問わずに落ちず、語るに落ちる」
という言葉があります。
この文章は、感想として、非常に複雑で、「誰が」「何を」「どのようにしたいか」
が、非常に複雑になっていて、
この文章を作成した方の「心理状態」や「本音」が見えていて興味深い印象を持ちました。
最期の、締めくくりには、
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この意味から,太極推手の“表演”に、
一筋の可能性 を見出し,さらにそのことで太極拳套路にも可能性を 見出すことで,
後代の人々に本当の(真の)太極拳に
たいして正確な道筋を与えてゆけるようにしたいもの である。
~~~~
※私の所感:
ここで、もう一度、この長い文章の冒頭とタイトルを見てみたい。
それに「推手」は推手の功法であり、「表演」というものは意識として別に関係がない、
ここで、わかったのは、彼らは「推手」をまったく理解していないことを、
自分で語っている事実。
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タイトルは、太極拳推手の「真」と「偽」
武術の表演は実戦ではない。
本来,「真(本物)」か 「偽(偽物)」か,とか言うものではない。
しかし,太極拳推手の表演ということになると,
「真」と「偽」 は一つの問題であるばかりでなく,非常に致命的な問題となる。
~~~~
※私の所感:
「総評」
私が、一番大きな印象を持った「文」は、
(1)、「真」と「偽」 は一つの問題であるばかりでなく,非常に致命的な問題となる。
※「偽」の正当化は困難。
(2)、太極推手の“表演”に、一筋の可能性 を見出し,さらにそのことで太極拳套路にも可能性を 見出すことで,
後代の人々に本当の(真の)太極拳にたいして正確な道筋を与えてゆけるようにしたいもの である。
※逆説的に表現すれば、彼らの行ってきた、その「太極拳形式」は「正確な道筋」がないから、こういうものへ今リアルタイムで関心を持っている、それを言いたい「長い文章」であった、
達観して、見ていると そういうことを思いました・・・
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※私の所感:
思うに、私の有する中国武術の「文武精神」では、
「文は体なり、武は用なり」
すなわち、
「文は体なり」
どの人が何を言おうとも、「人」は、その人が有する知性や文化教養で、見える姿形のすべての全てが現れるのです。
「武は用なり」
武術は、太極拳も同様に、「武芸」「養生」「思想哲学」であります。
芸事は何でも、意識、意思、意味があり、その道を高め切磋琢磨し、その過程で「用」が向上することで「芸」となるものです。
総称すれは「人」もそうであり、
「用有る者」は評価され、
「用無き者」は自然淘汰を受けるものです。
ゆえに、「文は体なり、武は用なり」
判りやすきことを、解りやすく、それが先人の智慧である理由です。
私の総評では、この「太極拳推手の「真」と「偽」 馬 長勲(口述),王 子鵬(整理),石原泰彦(日本語訳)の文章は、
ひとことで言えば「迷える老羊」の行ってきた「その、太極拳 の結末、結果」という印象を持っただけです。
それが文部科学省の事業委託を受けて展開した、この方々の日本全国へ長い時間をかけて展開してきた「太極拳事業」での結果を、責任者である石原奏彦さん自身が、この文章の総括において語っています。
ここで、この文章における所感は終わります・・・
今、ふと思ったことで、
現代日本社会、歪んだ民主主義、米国式資本主義の中で、
こういう結果になった方々へ「慈悲」の想いを感じています。
今こうして感じるに、自分の武術歴「34年 武術年齢34歳」という意味で、
様々を思います。
日本国民1億2700万人、現代日本社会の社会環境で多くの問題という問題が起こりやすいのは、
衣食住、生活習慣病の要因は、すべての全てに、
「複雑、混沌、混乱」が問題の根幹で原因になっていることを、私はずっと以前から気付いていました。
ここ数年「禅」の概念が、日本国内の良識ある有識者には関心を集めています。
「太極拳」は「武芸」「養生」「思想哲学」
武術運動は、意識運動、呼吸運動、全身運動なので、
心身への良質で有益な運動効果や効能があるからこそ「中国武術」であるのです。
中途において、私が国内の武術活動の運営形態へ批判することは、
そうした
「太極拳」で「武芸」「養生」「思想哲学」が不完全で、
武術運動は、意識運動、呼吸運動、全身運動がなく、
心身への良質で有益な運動効果や効能のない「中国武術」と称する媒介へであり、
それまでに、「時間」「経済的負担」「労力」に有益でないものに、
改善して欲しい願いが、私の根本意識に今存在しています。
正しい「太極拳」であれば、「太極拳は動く禅」ともいわれています。
「本当に、重要なもの」「本当に必要なもの」
ただそれだけを、精進し修養することで、
余計な「雑念」は消え、「迷い」も消え、
明け方に、暗い夜から、明るい一筋の陽光が輝き出し、
日々の練功の「積み重ね:功夫」に感じていくものは、
「穏やかな精神」
「身軽な身体感覚」
「年を重ねるごとに成長、進化する楽しみ、趣の助長」
この3つが、大きくなるものです。
今年で、私の実践してきた「三現:表現、体現、実現」
そして「実現は実感」
「実感、判明、確信、理解」の4段階の「実現」
来年、2017年は、私たちの新たな時代のムーブメントが楽しみです。