私の中にある「中国武術」関係の「記憶:世界観」というのは、2種類あります。

一つは多くの皆さんと同じでやはりマスメディアからの情報を知った影響の世界観。

しかし、途中からは映画や放送メディアなどにはまったく知られることもなく関係のない、

自分自身が実際に経験して、生きて感じて修練をやって来た中国武術界での世界観があります。


武術活動を始めたのは13歳から34年めなのですが、

31年前から始めた本場中国大陸で学び・修養の往来を続ける中で始まった実際の本物の「中国武術界」での活動とその経験から来た今現在の自分自身の武術界でのやってきた歴史・キャリアのある世界観・・・

まだ小学校1年生の頃に「Gメン75」というドラマがあり、その中で香港カラテ・シリーズというものがあり、アクションシーンが好きでした。




そしてブルース・リーの映画がテレビで放映されるようになってから空手からカンフー・ブームが始まりました。当時は毎日どこかのチャンネルで「ショウ・ブラザース」作品が放映されていて、大体それらを見て、その頃あたりから普及が始まったばかりのビデオデッキで録画していて、毎日見ていました(笑)


片腕ドラゴン ジミー・ウォング



テレビドラマで、日本語版では「香港カンフー・ドラゴン少林寺」という作品でしたが好きでした。




その当時、小学生の時分は1年生から6年生の卒業時まで剣道少年でありました。



当時は1978~79年頃で小学校4年生10歳の時でした。

しかしながら同時にプロレス・ブームもあって、地域の公民館に大きなマットが置いてあり、そこで、プロレスの技を掛け合う練習を独学で行っていました。

ですから関節技というのは、中国武術を学ぶ前から腕の「キーロック」とか足4の字固めとかコブラツイストとか、ボウ&アローとか既にやっていて、蹴り技でドロップキックとか普通に行っていました(笑)



剣道は週2回、水泳の選手クラスも週2回、木曜日には公文というところへ通わされそうになりましたが拒絶して行きませんでした。当然に塾は1度も行きませんでした(笑)

私の小学生4年生ぐらいの頃は更に同時にウルトラマンとか仮面ライダーとか、アニメでは永井豪さんの作品が好きでデビルマン、マジンガーZシリーズとか宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999、ルパン三世などが人気で私も好きでよく見ていました。

思うと、もっと小さい頃の記憶で保育園時代には絵本で好きだったのは「牛若丸:源義経」「一寸法師」でした。

今想う、自分の思考の原点の「鎌倉武士」への意識は、この頃からあったと思います。

小学校5年生の頃から、中国拳法という世界観を知り、本から独学で練習をしていました。

この頃には、まだ太極拳という名はさほど世間には知られていませんでした。

やがて、

「ひらけポンキッキ」というバラエティー番組に出演していて、後に遭遇する、全日本太極拳協会の顧問だった松田隆智さんがカンフーレディというものをやっていて、




「これは、自分の目指す本物の中国武術とは違うな」と子供心から直感で感じていました。

テレビや雑誌、マンガなどの影響は大きく、空想世界のものに憧れを持つ人が沢山いましたが、私は実際のもの、本物だけに関心を持ち、意識ではイメージ世界とは一線を画すようになりました。

そして都内の当時は有名だった中国拳法の道場で体験練習をさせてもらいましたが、これも「違うな」と思っていました。

先ず違うと思った直感は、動きはさながら体型と姿勢と「目」、そして中国武術の思想哲学の有無も基準になっていました。

そして「中国武術代表団」が年々来て、その演武がテレビでも放映されるのを見て「これだ」と直感で判りました。







後に映画「少林寺」が公開されて大きな社会現象の流行にまでなりました。






実は本当は、少林寺映画はショウ・ブラザースの製作した「1974年 少林子弟」



「1978年 少林寺36房」のヒットがあって後に中国大陸で撮影された映画少林寺はリメイク作品でした。




そうするうちに太極拳ブームが始まり、中学1年生で近くにあったアマチュア教室で太極拳と取り入れ初めたばかりの長拳と簡単な武術基本功を教えてもらえました。

14歳 習い始めて1年め、1983年 初めての演武。

1983年 14歳

15歳 大阪で開催された、1984年 第1回全日本太極拳・中国武術表演大会に東京代表で出場。

1984年 15歳

それから高校生になり全日本太極拳協会の選手の方から勧誘があり、移籍して、そこで初めて本場の中国大陸の先生方とお会いすることが出来てすぐに入門しました。



杜進老師は本当に功夫も人格も素晴らしく、本当に今でも感謝しています。

それから翌年の1985年の春から中国上海へ武術を学びに行くようになり、杜老師の師匠で師爺の徐文忠老師に指導を受けることが出来ました。

1985年 上海体育学院にて

1985年 16歳

初めての宴会

邱丕相老師 1985年

それからは毎年の往来を続け、滞在期間は長くできなくなりましたが、今でも続いています(※今年はゴールデン・ウィークを使って若き教え子たちを連れて次世代21世紀時代の交流をスタートします)

1986年 安徽省武術隊にて

安徽省武術隊 1986年

1987年 徐文忠老師の来日 付き人時代

1988年 徐老師



1989年 2回目の安徽省武術隊では、もう本場と同じ標準での武術レベルへ到達出来て自信が着いた時期。

4番めが自分。



安徽省武術隊の仲間たち 



1989年 19歳 恩師、花妙林老師と初めての出会い。



※真ん中黒服 花老師が痩せてて、青春熱血、武術教師で格好が良かった頃(笑)

自分は赤ジャンパー。

花妙林老師 1989年


花老師の後継者、韋剣。




花妙林老師 韋剣老師が新日本、新時代武術界の発展への強力な後押しの協力者です。

花妙林老師と韋剣老師

花妙林老師と韋剣老師


1990年 演武。



杜進老師




20年前、1995年頃。

三人対打拳

棍術




2000年 ベトナム アジア選手権大会

「1:20」真ん中の水色の服が自分。




こうして気付けば34年間の自分の武術人生で授かったものは、技能や理論、思想哲学を含めて、すべては「無形財産」であり、

本当に、いい人生の時間の連続ばかりだったと回想をよく行っています。

そしてだんだんに自身の感想としての変遷も出てきました。

「2001年 8月 米国 アメリカへ遊学」

憧れの胡堅強老師を訪ねる・・

そして「米国社会で1ヶ月の生活」






以前は20代後半まで好きだった「カンフー映画」も「役柄を演じる俳優さん」にはあまり関心が持てなくなり、

それよりも、映画の原作のストーリー展開のある中国の歴史の時代背景から、その時代の政や、同時に日本はどのような時代でどんなことが行われていたか、

というものに興味を持ち始め、そうした歴史の史跡を訪ねたり、

歴史に携わってきたものに関心があり、

実際の私の武術活動も、だんだんと考古学系になっていく不思議さを感じます。

器械5

器械4


2003年 映画「少林寺」で憧れた、胡堅強老師を日本に招聘。








3

胡堅強老師2

胡堅強老師1





少林3

少林2

少林1


2007:09年 三国史 曹操の専属医師 神医 華侘の創始した五禽戯を学び、文化交流の旅。

兄弟子 賈平さんと再会

かへいさんと共に




式典


老師方々

(07年、11月 中国安徽省 亳州市 五禽戯の故郷を訪問 神医華陀を祀る 華祖庵・華侘記念館の華陀像の前 1800年続く 伝統華陀五禽戯 57代伝承者 薫文煥老師の面前にて 太極拳を披露し 歴史ある奉納演武を行いました)




2010年 学んだ 五禽戯を生かして活動を更にフル稼働。

香港国際武術大会にオファーを受け「健身気功 展示会」へ日本人の代表として出場。




安徽省武術隊で一緒に練習した「栄軍」がスイス代表で来ていて久しぶりに再会。

栄軍との再会




2011年 時は流れ、自分の原点だった上海体育学院も、安徽省武術隊同期 範燕美さんが教授になり、研修ツアーを行いました。

上海体育学院

中国武術博物館2

上海体育学院学習ツアー7

上海体育学院武術ツアー2


2014年 上海 復旦大学 武術協会、上海 龍身蛇形太極拳 総部 瞿栄良老師と提携交流を本格的にスタート。

復旦大学正門前にて

黒龍江省武術協会と合同練習


昨年2015年 一つの節目でメモリアル大会になったシンガポール国際武術大会。

みんなで記念写真

大会会場

大会審判団


そして、今年2016年が始まり、

上海体育学院ウェア

短棍

長拳 弓歩推掌

渡辺成人4

警戒式

馬歩格肘

提膝亮掌

警戒式3

警戒式2


今年は5月に上海へ訪れ、新しい21世紀型 武術活動を、これから引き継いでくれる若者達を連れて研修ツアーに行ってきます。

今日本国内にありがちな、旧時代型のお土産で、何かしら、やっていることが判りにくい複雑なスタイルのある実情がありますが、

それは、それで置いておいて、

新しい日本国内の「武術:WUSHU」や「太極拳:TAIJI」「気功:QIGONG」を本場中国での正しいスタイルの標準化を確立した、

楽しく、明るく、みんなで元気に心身が快適な活動をしている、一単位として、またこれからも、多くの皆さんに期待をしたいと思います。

主役は皆さんです。

よろしくお願い致します。