先日、東京でのレッスンの途中に時間ができたので、
ふと、想うことがあり、
兼ねてから訪ねてみたいところで「愛宕神社」に参拝しました。
噂に聞いていた、「出世の石段」
私もレッスン用の荷物を背負ったまま階段を一気に登りました。
上がると祀ってある「弁財天」からの、爽やかな水の香りが漂います。
見渡すと以前は高い山であったことが垣間見られます。
下りは思った以上に急で、さすが「出世の石段」のレベルを教えてもらえました。
日本に生まれ育ち、日本で生きていく中で、かねてから、
ある「日本精神」的な洗礼の厳しさを、以前からずっと感じていて、
その「日本で世に出る厳しさ」は「どういうもの」か。
それは今までに、私にも「求められてきたもの」の厳しさの「いわれ」は何か、
そして関東人としての求められてくる「気概」とは何か。
どの世界の誰にでも日本人の宿命として必ず感覚的に受ける、そういった厳しい試練が必ずあり、それを乗り越えてこそである。
私にも、かつてから、その求められた「試練」を幾つも経て今日を迎えています。
そして、それは何か、それをどのように表現するかを、よく考えていました。
愛宕神社にて、「日本一の馬術名人」と徳川家光に評された、
「曲垣平九郎(まがき・へいくろう)」
の素晴らしい心意気にその「日本精神」の象徴こそを学ぶことができました。
間違いなく天下の徳川将軍家を継ぎ時勢を生きることの厳しさ、世の安泰を守りながらも、武家である臣下を怠けさせないためにも治にいて乱を忘れずに生きる、関東江戸文化特有での気概の重要さを象徴的に教えてくれるものだと思います。
※日本人なら誰でも受ける「世の厳しさの象徴」に懊悩され、その理由を知りたい方は是非参拝されることをお薦め致します。
またこれからも機会ができると思うことで、参詣したいと思います。
有難う御座いました、私もまだまだこれからを精進致します。


~愛宕神社トリビアより~
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。
その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の、曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。
歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
ふと、想うことがあり、
兼ねてから訪ねてみたいところで「愛宕神社」に参拝しました。
噂に聞いていた、「出世の石段」
私もレッスン用の荷物を背負ったまま階段を一気に登りました。
上がると祀ってある「弁財天」からの、爽やかな水の香りが漂います。
見渡すと以前は高い山であったことが垣間見られます。
下りは思った以上に急で、さすが「出世の石段」のレベルを教えてもらえました。
日本に生まれ育ち、日本で生きていく中で、かねてから、
ある「日本精神」的な洗礼の厳しさを、以前からずっと感じていて、
その「日本で世に出る厳しさ」は「どういうもの」か。
それは今までに、私にも「求められてきたもの」の厳しさの「いわれ」は何か、
そして関東人としての求められてくる「気概」とは何か。
どの世界の誰にでも日本人の宿命として必ず感覚的に受ける、そういった厳しい試練が必ずあり、それを乗り越えてこそである。
私にも、かつてから、その求められた「試練」を幾つも経て今日を迎えています。
そして、それは何か、それをどのように表現するかを、よく考えていました。
愛宕神社にて、「日本一の馬術名人」と徳川家光に評された、
「曲垣平九郎(まがき・へいくろう)」
の素晴らしい心意気にその「日本精神」の象徴こそを学ぶことができました。
間違いなく天下の徳川将軍家を継ぎ時勢を生きることの厳しさ、世の安泰を守りながらも、武家である臣下を怠けさせないためにも治にいて乱を忘れずに生きる、関東江戸文化特有での気概の重要さを象徴的に教えてくれるものだと思います。
※日本人なら誰でも受ける「世の厳しさの象徴」に懊悩され、その理由を知りたい方は是非参拝されることをお薦め致します。
またこれからも機会ができると思うことで、参詣したいと思います。
有難う御座いました、私もまだまだこれからを精進致します。


~愛宕神社トリビアより~
愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれています。
その由来は講談で有名な「寛永三馬術」の中の、曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。
歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。
「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。