
孫文、そん・ぶん(1866~1925)
中国人の政治家、革命家。初代中華民国臨時大統領。
清の時代、広東省で出生。ハワイの兄のもとに行き、ホノルル市のプナホウ・スクールに学び西洋思想に触れる。中国に帰国し香港西医書院(のちの香港大学)で医学を学ぶ。
卒業後、マカオで医師として開業。ハワイで興中会を組織。日清戦争終結後に武装蜂起を企てたが密告で頓挫し、日本に亡命。
その後、清朝打倒の活動に尽力し初代中華民国臨時大統領となった。
辛亥革命が成功した陰には、物心両面にわたる日本人の多大な援助があったことは、あまり知られていない。
中でも、純粋に孫文の人間性に惹かれ、アジア全体の独立と発展を望んでいた孫文の理想に共感して、無欲で援助した日本人が実在した。宮崎滔天、梅屋庄吉、山田純三郎らであった。
彼らには、日本と中国が手を携えて、欧米列強に踏みにじられてきたアジアの新時代を築きたいという大きな夢があった。その夢に一生を捧げ、道半ばにして他界した。
辛亥革命の成功
孫文は「辛亥革命」を成功に導き、中国でも台湾でも「国父」と呼ばれて尊敬されている。
辛亥革命とは、1911年(干支が「辛亥」に当たる年)から翌年にかけて、中国で起こった民主主義革命で、清朝の打倒と共和制の確立が目的であった。
その結果、古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家の中華民国が成立した。
三民主義(さんみんしゅぎ)は、1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論であり、また後にまとめられて理論書として出版された。
これは中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法にその趣旨が記載されている。
三民主義は三つの主義から成っている。つまり、民族(中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(土地の平等)を意味する。
中でも民族主義は、満州族である清王朝を打倒して民族の独立をめざし、第一次国共合作(中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のこと)を経て、欧米列強の帝国主義による半植民地状態からの脱出と、漢民族と少数民族の平等を意味する五族共和へと発展を目的としていた。
2012年 上海国際武術博覧会の大会期間に「孫文故居記念館」を訪ねる
「天下為公」
「革命いまだ成らず」
「日本と中国が争ってはいけない」
「日本民族は、すでに一面欧米の覇道文化を取り入れると共に、他面、アジアの王道文化の本質をもっているのであります。今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべきことであります」
注釈:孫文が日本で行った演説での有名な一節
「信念ができると、力が生まれる」
「一つ失敗するごとに一つ進歩する」
「国とは人の集まりなり、人とは心の器なり」
「自分がやれると信ずるなら、たとえ山を移し、海をくつがえすほど困難なことでも、いつかは成し遂げることができる。自分がやれないと思うなら、たとえ掌(てのひら)を返し、枝を折るほど容易なことでも、永遠に成し遂げることができない」
「世間でいう成功者とは、一時の栄えに過ぎない。志と信義を持つ者こそが、万世にわたる功績を成す」
「地盤を確保する方法とは、なにか、それは人心を得ることにある。一度、人心を得れば、この地盤を永久にわれわれのものにし、他人から奪われることはない」
「先知先覚者は創造する人であり、後知後覚者は宣伝する人であり、不知不覚者は実行する人である。この三種の人々が互いに助け合い協力してこそ、はじめて人類の文明は一日千里の勢いで進歩し得る」
「知るは難く、行うは易し」
「目的を達成するまで中途で放棄してはならない。我々は必ずこの目的を達成しなければならない。それが我々の志気である」
「強権に抵抗してこそ、われわれは天に順って行動することになる」
「中国人は砂の民である。石にも、まして岩にもなり得ない民族である」
「個人があまり自由をえすぎてはいけないが、国家は完全な自由をえなくてはならない。国家が自由に行動できるようになれば、中国は強国になれるのだ。このようになるには、みんなが自由を犠牲にする必要がある」
「民権は人民の政治力である。人民を管理するのが民権である」