
今年2015年も10月下旬が近付き、今年も残すところ2ヶ月と1週間ほどになりました。
秋も静けさの空間が広がり、しなやかに感じる薄の穂や遠くから聞こえる鳥の鳴き声を聞くと、
もう秋ももう晩秋へと向かい、冬が近付いてくる。
そんな気配を思います。
今年は私にとって、1985年から始めた中国大陸での武術の伝授を受けるための往来30年を記念して思い出に残る年を頑張ろう、と企画をして行ってきました。
それは昨年から準備が始まっていて、上海のオリジナル太極拳項目の龍身蛇形太極拳を現地で2回学び受け、私たちの活動項目にするべく、
競技部門、養生部門、実用技法の推手と、多くの角度から新しく応用できるよう練習カリキュラムを研究し、ようやくこの半年をかけて総合太極拳としてまとめあげることができました。
これからは、きっと皆さんの毎週の活動に大いに役立ち、それぞれに健全な心身の継続維持に連動する楽しみとなって盛り上がっていくと思います。
先月行った第8回交流会で、演武会を通じてその紹介を行いました。
ようやくここへ来て、ひとつの役割を終えて肩の荷を降ろせた感があります。
そして、7月下旬にはシンガポール国際武術大会で私が1986年、1989年の安徽省武術隊での武術短期留学時の練習仲間たちとも再会し、
互いの近況や、当時の仲間たちが今どんなことをしているか、大会期間中にいろいろと話すことができて、時の流れを感じました。
やはり正直に思ったことは、
時間が経つ毎に、すべてというすべては変化し続ける、という実感でした。
私は13歳から武術を始め、16歳から本場中国を知り、ほぼ毎年に訪れ、私にとって中国は「武術の故郷」です。
ひとつの「ある時期」に至るまで「中国武術家」に本当になってしまおうと思い続け、ずっと常に中国で学び帰国してからも、質として同じように武術の練功をこなし、
生活の内容も安徽省武術隊でのライフパターンを応用し、いい意味での「中国式」が完成し、
いつの間にか、私の脳内感覚も「日本式」と「中国式」を矛盾なく上手に使い分け、
私なりの「処世術」が出来上がりました(笑)
そして、生活のすべてという「すべて」を私の完全な武術ライフスタイルに合わせる革命的な仕事の場として、いいタイミングを見計らって横浜に転居しました。
論語にある「三十にして立つ」の言葉を受けて、横浜へ来てから16年が過ぎます。
振り返れば、本当にこの16年間は「やりたいことだけ、やってきました」
逆説的に表現すると「やりたくないことは、一切やらないできました(笑)」
しかしながら、ここまで来るには辛抱と忍耐はたくさんしてきました。
「やりたいこと」を目指し頑張っている中で、嫌悪感を受ける、ストレス:精神的不快感を感じることはしょっちゅうです。
その中でも、自身を易経にある「自強不息」の言葉に自身を奮い立たせて、努力を続けました。
そうする中で頑張り続けると「やりたくないこと」は自然になくなっていくことを知りました。
おそらく人間界の「業」とは、そういうものであろうと思います。
(※修業中で辛いと感じたものも、無我夢中で行えば辛いとかなくなり、慣れてしまえば普通の作業のひとつでしかなくなるものです)
そして横浜へ移ったことで最大のメリットはかつての修験道の僧たちが修業した場が、丹沢や鎌倉の山や海にいくつもあり、そこへと訪れ感覚を学べる立地があることでした。
そこで実は伝統中国の養生の研究と実践をできる限りのすべてを行う機会を作りました。
長年かけて、本場中国で入手した書物の中にある、
古き中国の古典に記された記述の言葉の意味や本質を想い、山を歩き、川を眺め、海を感じ、
そうした時間をレッスンの仕事のない時に、すべて費やしました。
こうして今振り返れば、
養生の言葉は、すべての世の中や衆生での本質を究め尽くしてあり、
それを感じる人間、人間の内面の本質に関することだと気付きました。
(※感じることができない人間たちは、永遠に感じることも理解もできない)
シビアに思えるかも知れませんが、人間は一人ひとり「同じ者」はなく、
たとえ家族でも兄弟でも異なる人間であり、
「共感」や「共有」をすることが多くとも、
本質は別の考えを持つ人間同士だ、という事実です。
そこで当然に「四苦八苦」は誰でも必ず起ります。
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。
苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。
根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。
極めた楽の概念を「極楽」という表現があるのなら、
それは最終的に自身の中だけにしか存在せず、
他人が自分になり得ないのと同様に、自分は他人なり得ない事実を見極め、
「ある到達できた境地」を理解した者が、
また次の境地を求める「誰か」に与え、勇気付け、励まし、共に精進しよう、
という奉仕や実践が尊く、
それを多くの「信仰:思想、哲学」が表現の単語などが異なるだけで「境地」は同じものに感じます。
現代日本社会は、より多くの四苦八苦に覆われてはいますが、実はその中にも多くのチャンスがあり、
そのチャンス(決して楽なものではない)を自らに飲み込んで、やるべきことをひたすらに行う。
そこにあると思うのです。
(※最近、すごいなと感じた言葉、綾小路きみまろさんの漫談から「もう二度と会うことはないでしょう!」思えば「一期一会」の逆説表現なんだな、と思いました・・・)