趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。
そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。
子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。
ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。
全ては夢であり束の間の出来事であったのである。
廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
自分が中学1年生で武術を始めたばかりの頃、とても影響を受けた小説に「邯鄲の枕」あるいは「邯鄲、夢の枕」があります。
昨年の上海と今年のシンガポールでと、この30年間での武術を体得するための中国との往来で、お世話になった先生方や同期の友人たちと再会をしました。
何かしら今年は不思議な自分自身の運命のことを考えたりしました。
本当にこの33年間、武術関連のことしか考えず、ひたすらにやって来ることができました。
中学生の頃、父が事業で失敗して、経済的に苦しかった時になっても新聞配達のアルバイトをして武術を学ぶための費用を稼ぎ、
高校生になったらアルバイトをかけ持ちでお金を溜めて中国へ行くようになって、高校を卒業して大学を卒業しても似たような生き方をしていました。
20代後半でフィットネス業界へスカウトされて、そのまま仕事を自分の専門の武術へ仕事を持っていき今日に至ります。
そして30代前半で、ベンチャー企業と共にコラボレーションでの事業の仕事で一度失敗しました。
そのありとあらゆる悔しさから、週に休みを取らず、朝から晩までレッスンをずっとどんどんやって、完全に仕事の全体を建て直しました。
そして、2008年のリーマン・ショック後にダメージを受け長く仕事をしていたクラブが2011年の大震災の影響もあってから2ヶ所が閉館し、それから思うことあって、
自分の生活のペースを最大限活用して、とても大事なレッスンだけ行うようになり、質を高め、そして地元の地域密着での気軽な感覚での武術活動を最優先してやるようになりました。
思えば武術活動を開始した13歳1981年の頃から、2011年まで、とにかくいつも必死で全部に余裕などは何もありませんでした。
今月上旬にシンガポールで憧れた周樹生老師にお会いし、有り難いことにいろいろとお話が出来て、多くのアドバイスまで頂いて、
ここにも自分の師匠の楊承冰老師との縁があったことに感銘を受けています。


以前に周老師の鷹爪拳の套路を練習していた時に楊承冰老師は「私と周樹生は大親友だ、海外公演もずっと一緒で練習の時に、私は槍術を彼に教え、自分は鷹爪拳を教わり、相互交流をよくしたんだ」と楊老師は私に言っていました。
そしていつかお会いできたら、と思っていました。
師匠 楊承冰老師(1976年)
楊老師と共に
(真ん中、少し右上で青と白のストライプのシャツが自分1988年)
※ちなみに、ビール大ジョッキにほっぺを付けているのは「谷川さん」自分の左横は先輩の「林学さん」右斜め下「88 7 10」をかぶっているのは「高山さん」その前のオレンジシャツは「勝部さん」 自分の右隣で真っ赤になって柱に抱きついているのは「佐久間くん」

1986年に引き続き、1989年3月、2度めの安徽省武術隊での個人短期留学。妙にリラックスして合肥に溶け込んでいる自分が何か可笑しい(笑)
8ミリビデオカメラを初めて中国大陸へ持ち込んで、いろいろと仲間にも協力して撮った映像。実は、実は、この3ヵ月後に北京でかの天安門事件が起こった・・
周樹生老師(現在、76歳 元気いっぱい 素晴らしい)
六合八法拳と剣
鷹爪翻子拳を、編纂してまとめた鷹爪拳元祖(1976年)
※この時の少年時代の「ジェット・リー」は、楊老師、周老師、徐基成老師に学び、レベルが上がっていき武術界の「アイドル化」を図ったというのが事実。
外国人で日本人である自分で今も相互政府間で問題がなくならない中でも、本当に中国の老師の皆さんは何でも教えてくれて、美味しい食事に毎日囲まれて、中国での想い出は素晴らしいものばかりでした。
今30年経ち、自分も30年時間を経て、多くの憧れていた中国武術家も何人かも逝去されたり、今は病気になって動けない、というような話を聞き とても寂しい思いが起こります。
そしてこの過ごした30年間の時間の中で、自分の10年上の代には功夫の凄い方々がまだまだいますが、その世代でも「もう動けない」という話や、
私の同年代や今の若い世代には後代に伝説を感じられる人が出なくなったように感じています。
日本国内でも便利な時代になり、トレーニング施設も進化し、練習環境は世界中で良くなっています。
本場の中国武術界でも「スポーツ化」が進み、スポーツ選手が増え「武術家」は少なくなった印象があります。
しかしながら思い起こすと1985年当時に中国は全体でも冷暖房がなく、冷蔵庫も電話も各家にはありませんでした。
そして自分が憧れた今70歳~80歳代の先生方は今から見ても超人だったと思います。
本当に4~5千年の歴史の長くある 素晴らしい中国の先生方の皆様に可愛がってもらい、
私が望んだ多くの武術項目 単練 対練 析招:散手攻防技術。
そして伝統太極拳の数々、
健身気功などを学び得て、自分でひたすらに時間をかけて練功を積み続け、今感じるには、
本当に心身が常に自在に活性化できる人間となり、それらを皆さんに日々伝える仕事の毎日はとても充実しています。
そして世を観れば、ずっと変わらず繰り返され、救いのない理不尽な現代日本のストレス社会を横目に、何かしら複雑な心境になることがあります。
最近涼しくなり、先日に夢の中で「夢」を見ている、不思議な朝がありました。
「ひょっとして、自分の今までの功夫:カンフーはもしかして夢・・」
しかしながら、しっかりと自分は「自分」であったことに安心しました(笑)
そのまま外に出て、横浜から北西の方向の青空を見上げて、悩める10代後半の頃、いつも励ましてくれた師の優しい顔や厳しかった表情、喜んでくれた笑顔を思い出しました。
今現在、自分が師:先生と同じ年頃になり、先生と同じような「キャラクター:性格」になって頑張れることに感謝を思っています。
空の向こうの師へ「謝謝!」
そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。
子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。
ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。
全ては夢であり束の間の出来事であったのである。
廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
自分が中学1年生で武術を始めたばかりの頃、とても影響を受けた小説に「邯鄲の枕」あるいは「邯鄲、夢の枕」があります。
昨年の上海と今年のシンガポールでと、この30年間での武術を体得するための中国との往来で、お世話になった先生方や同期の友人たちと再会をしました。
何かしら今年は不思議な自分自身の運命のことを考えたりしました。
本当にこの33年間、武術関連のことしか考えず、ひたすらにやって来ることができました。
中学生の頃、父が事業で失敗して、経済的に苦しかった時になっても新聞配達のアルバイトをして武術を学ぶための費用を稼ぎ、
高校生になったらアルバイトをかけ持ちでお金を溜めて中国へ行くようになって、高校を卒業して大学を卒業しても似たような生き方をしていました。
20代後半でフィットネス業界へスカウトされて、そのまま仕事を自分の専門の武術へ仕事を持っていき今日に至ります。
そして30代前半で、ベンチャー企業と共にコラボレーションでの事業の仕事で一度失敗しました。
そのありとあらゆる悔しさから、週に休みを取らず、朝から晩までレッスンをずっとどんどんやって、完全に仕事の全体を建て直しました。
そして、2008年のリーマン・ショック後にダメージを受け長く仕事をしていたクラブが2011年の大震災の影響もあってから2ヶ所が閉館し、それから思うことあって、
自分の生活のペースを最大限活用して、とても大事なレッスンだけ行うようになり、質を高め、そして地元の地域密着での気軽な感覚での武術活動を最優先してやるようになりました。
思えば武術活動を開始した13歳1981年の頃から、2011年まで、とにかくいつも必死で全部に余裕などは何もありませんでした。
今月上旬にシンガポールで憧れた周樹生老師にお会いし、有り難いことにいろいろとお話が出来て、多くのアドバイスまで頂いて、
ここにも自分の師匠の楊承冰老師との縁があったことに感銘を受けています。


以前に周老師の鷹爪拳の套路を練習していた時に楊承冰老師は「私と周樹生は大親友だ、海外公演もずっと一緒で練習の時に、私は槍術を彼に教え、自分は鷹爪拳を教わり、相互交流をよくしたんだ」と楊老師は私に言っていました。
そしていつかお会いできたら、と思っていました。
師匠 楊承冰老師(1976年)
楊老師と共に
(真ん中、少し右上で青と白のストライプのシャツが自分1988年)
※ちなみに、ビール大ジョッキにほっぺを付けているのは「谷川さん」自分の左横は先輩の「林学さん」右斜め下「88 7 10」をかぶっているのは「高山さん」その前のオレンジシャツは「勝部さん」 自分の右隣で真っ赤になって柱に抱きついているのは「佐久間くん」

1986年に引き続き、1989年3月、2度めの安徽省武術隊での個人短期留学。妙にリラックスして合肥に溶け込んでいる自分が何か可笑しい(笑)
8ミリビデオカメラを初めて中国大陸へ持ち込んで、いろいろと仲間にも協力して撮った映像。実は、実は、この3ヵ月後に北京でかの天安門事件が起こった・・
周樹生老師(現在、76歳 元気いっぱい 素晴らしい)
六合八法拳と剣
鷹爪翻子拳を、編纂してまとめた鷹爪拳元祖(1976年)
※この時の少年時代の「ジェット・リー」は、楊老師、周老師、徐基成老師に学び、レベルが上がっていき武術界の「アイドル化」を図ったというのが事実。
外国人で日本人である自分で今も相互政府間で問題がなくならない中でも、本当に中国の老師の皆さんは何でも教えてくれて、美味しい食事に毎日囲まれて、中国での想い出は素晴らしいものばかりでした。
今30年経ち、自分も30年時間を経て、多くの憧れていた中国武術家も何人かも逝去されたり、今は病気になって動けない、というような話を聞き とても寂しい思いが起こります。
そしてこの過ごした30年間の時間の中で、自分の10年上の代には功夫の凄い方々がまだまだいますが、その世代でも「もう動けない」という話や、
私の同年代や今の若い世代には後代に伝説を感じられる人が出なくなったように感じています。
日本国内でも便利な時代になり、トレーニング施設も進化し、練習環境は世界中で良くなっています。
本場の中国武術界でも「スポーツ化」が進み、スポーツ選手が増え「武術家」は少なくなった印象があります。
しかしながら思い起こすと1985年当時に中国は全体でも冷暖房がなく、冷蔵庫も電話も各家にはありませんでした。
そして自分が憧れた今70歳~80歳代の先生方は今から見ても超人だったと思います。
本当に4~5千年の歴史の長くある 素晴らしい中国の先生方の皆様に可愛がってもらい、
私が望んだ多くの武術項目 単練 対練 析招:散手攻防技術。
そして伝統太極拳の数々、
健身気功などを学び得て、自分でひたすらに時間をかけて練功を積み続け、今感じるには、
本当に心身が常に自在に活性化できる人間となり、それらを皆さんに日々伝える仕事の毎日はとても充実しています。
そして世を観れば、ずっと変わらず繰り返され、救いのない理不尽な現代日本のストレス社会を横目に、何かしら複雑な心境になることがあります。
最近涼しくなり、先日に夢の中で「夢」を見ている、不思議な朝がありました。
「ひょっとして、自分の今までの功夫:カンフーはもしかして夢・・」
しかしながら、しっかりと自分は「自分」であったことに安心しました(笑)
そのまま外に出て、横浜から北西の方向の青空を見上げて、悩める10代後半の頃、いつも励ましてくれた師の優しい顔や厳しかった表情、喜んでくれた笑顔を思い出しました。
今現在、自分が師:先生と同じ年頃になり、先生と同じような「キャラクター:性格」になって頑張れることに感謝を思っています。
空の向こうの師へ「謝謝!」