岳飛廟

私は、毎日指導で多くの皆さんと接しています。

その中で、感じることでは、

ここ数年、年配の皆さんや、自分の同世代の方々と話をすると何かと「中国が~」とか、やっぱり「中国は~」と聞かれ、

報道機関の行う世界中の膨大な出来事から、抜粋して記事制作を行っている仕事結果から何かと多くの判断材料を得ているようです。

私自身は欧米化された現代日本社会と、現代に発展している中国社会においての政財界での摩擦の影響する世界経済3位になった日本と、

巨額の負債を持つアメリカ政府、実質世界経済1位の中国政府間内での問題からある問題意識とは、はっきりと一線を画するようにしています。

皆さんのお話を聞いていると、日本列島の国土の26倍、政府認定で55の民族が共生し、人口は10倍以上で、私が初めて1985年に訪れた時は「10億人」だった人口が、今は13億5千万人を越え、昨年に上海で聞いた時は14億を突破している、と知りました。

(※米国は3億人、日本は1億2700万人で政府の言う日米同盟で合わせても10億人ほど差があります)


日本国内を見てみると、最近に人口が減ったと報道機関が騒ぐ割りには、横浜や東京では変わらずにぎゅうぎゅうの満員電車、コンビ二やスーパーでの行列、子供が生まれても入れない保育園、

「本当ですか!?」って言いたくなることがあります。

日本人で特にテレビ、雑誌、新聞報道を鵜呑みにする皆さんは大体「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な傾向があって、

「坊主」と「袈裟」と「憎しみ」は全部別々の概念で、精神構造的に変化があまりなく「複雑さ」を判別するのが苦手で長く続いた「弥生時代的」日本の思想文化背景がそこにはあり、

そこへ米国式「サブリミナル効果」と「プラシーボ効果」を日本政財界は導入し、ありとあらゆるところで「印象操作」を図っています。

それは「9.11」「アフガン・イラク戦争」の起きた「ブッシュ政権」との蜜月関係を築いた「小泉政権」から顕著になったように感じています。

思うと、

伝統日本文化の素晴らしさと、日本の長き歴史にとって重要な伝統中国文化の素晴らしさを知らない皆さんなのだな、と逆に長き伝統文化教養や知性というものの有無というものは、

時に自分自身の人生を有意義に活かす糧や、

世の中の為政者や政の不憫さを実質的に考え、平和に見える乱世であってでも自分自身の行く道へのヒントを見つけられるか否かにも関係していくと思うのです。


私が、20代半ばに一番「政治学」的な影響を受けた「荀子」と「韓非子」をご紹介します。

これらを読み解いてみて、今の安倍政権やオバマ政権、日本国内にある事実や結果。


本物の中国思想哲学文化において、一考をしてみる機会があったら嬉しいです。


荀子(じゅんし、紀元前313年? - 紀元前238年以降)中国の戦国時代末の思想家・儒学者。

学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、信頼できる師の下で体系的に学び、かつ正しい礼を学んで身に付けた君子を目指さなければならない。

荀子にとっての君子は、礼法を知って社会をこれに基づいて指導する者である。

人間は終生学び続けることによって自らを改善しなければならないと説いた。

勧学編「青は藍より出て藍より青し」の成語が有名。

荀子は云う、君子が学ぶべき対象は、「礼」であることが説かれる。修身篇では、君子は「礼」に従って行動するべきことが強調される。

「荀子」富国論より、

万物は同じ宇宙に住んでいるがそれぞれ形が異なり、いずれも理性を持たないので人間に使役されるのは、法則というものである。いっぽう人間は共に生活し、同じものを求めながらさまざまな手段を用い、同じものを望みながら獲得する知力が異なっているのは、人間の性質というものである。

欲しい・やりたい、と思うところまでは智者も愚者も同一であるが、何を欲しい・何をやりたい、と望む対象は智者と愚者は異なる。

地位が等しいのに知力に差があり、私利を実行しても危険がなく、私欲のままに行動しても追い詰められないならば、人民の心はやりたい放題に争って、権力に喜んで服することはない。

こんな状態であれば、智者でも統治は不可能である。

智者が統治不可能であれば、智者に功名を挙げさせることは不可能である。

智者が功名を挙げることが不可能であれば、群集は区分して秩序づけられることはない。群衆が区分して秩序づけられることがなければ、君臣の区別もない。

よって君主が家臣を統制することもなく、身分上位者が身分下位者を統制することもない。

天下の害は、欲をほしいままに放つところにあるのである。欲しいもの・嫌なものが複数の人間で同じであれば、欲に対して対象が足りないことになる。

足りなければ、必ず争いになる。

そもそも一人が生活するためには多数の職人が働いて製品を提供しているのであるが、どんなに才能があっても何でもできる技能を持てるわけではなく、同じく人は全ての官職を兼務する能力はない。人間は離れ離れで生活していて互いに協力し合わなければ、たちまち窮乏するだろう。

かといって人間は集団生活していて秩序づけられなければ、たちまち私闘するであろう。

窮乏は、わざわいである。

私闘もまた、わざわいである。

わざわいを除くためには、区分して秩序づけた上で集団生活させるのが一番なのである。

強者が弱者を脅迫し、智者が愚者を威圧し、身分下位者が身分上位者に逆らい、年少者が年長者より威張る。

このように徳の原理をもって政治を行わないならば、老弱者は扶養されないで苦しみ、

健全な心身を持つ者にも争いのわざわいの影響が起きるであろう。

きつい仕事をするのは嫌いで利得を得るのは好きであるが、それで職業の合理的な秩序区別がないならば、人は勝手に仕事を行う害が起こり、功利を争うわざわいが起きる。

老若男女の正しい連携、これらが欠けたならば、人はまともにパートナーが見つけられない苦しみが起きて、様々なわざわいが起きる。ゆえに、智者はこれらについて、区分して秩序を作るのである。



「韓非子」より、


矛盾は「韓非子」の有名な一篇「難」に基づく故事。

「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた楚の男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話。

亡微

凡人主之国小而家大、権軽臣重者、可亡也。

国は小さいのに臣の家が大きく、王の権力が弱くて臣の権力が強いのは危ない。

簡法禁而務謀慮、荒封内而恃交援者、可亡也。

王が法律を軽んじてはかりごとにばかり関心があり、国内を荒れさせる一方で友好国をあてにしているような状況は危ない。

群臣為学、門子好弁、商賈外積、小民右杖者、可亡也。

家臣たちが(誤った)学問を行い、家臣の子弟が口のうまさばかりよしとし、商人が外国に蓄えを持ち、下々の者が、上に頼るばかりなのは危ない。

浅薄而易見、漏泄而無蔵、不能周密而通群臣之語者、可亡也。

底が浅く考えていることを簡単に見透かされ、意図を隠しておくことができず、配慮があらく、家臣らのいうことをすぐ別の人に言う、そういう人が王であると危ない。

簡侮大臣、無礼父兄、労苦百姓、殺戮不辜者、可亡也。

家臣を馬鹿にし、親族に礼を用いず、民を苦しめ、罪のない者を殺す、そのような人が王であると危ない。

公家虚而大臣実、正戸貧而寄寓富、耕戦之士困、末作之民利者、可亡也。

王家の倉は空で大臣の家の倉は満ち、もとからいる民は貧しく外から来た者は富み、耕作に励み戦では命をかける(本来たたえられるべき)者は生活が苦しいのに、(商工業など)大したことのないなりわいの者が潤うのは危ない。

辞弁而不法、心知而無術、主多能而不以法度従事者、可亡也。

王が能弁で賢く何でもできるが法術(=形式的なとりきめを守らせることで秩序を実現すること)を無視するようば場合は危ない。