私は今から33年前に中国武術界の道へ入るようになり、今からちょうど30年前の春からほぼ毎年に本場中国大陸との往来を始めることになりました。

その後には意外にも様々な歴史的な縁に繋がり、今日に至ります。

今日はこれから野外練習交流会を行いますが、その練習の中で資料と共に解説をしますので予め資料部分を紹介します。


荘子

荘子 刻意編から「導引」

刻意尚行,離世異俗,高論怨誹,為亢而已矣;此山谷之士,非世之人,枯槁赴淵者之所好也。

語仁義忠信,恭儉推讓,為修而已矣;此平世之士,教誨之人,遊居學者之所好也。

語大功,立大名,禮君臣,正上下,為治而已矣;此朝廷之士,尊主強國之人,致功并兼者之所好也。

就藪澤,處閒曠,釣魚閒處,无為而已矣;此江海之士,避世之人,閒暇者之所好也。

吹呴呼吸,吐故納新,熊經鳥申,為壽而已矣;此道引之士,養形之人,彭祖壽考者之所好也。

心を励まして行いを高尚にし、世間から離れて人と違う行動をし、高尚な議論ばかりをして世の無道をそしり、おのれの不遇を怨むのは、自分を尊大にしているだけである。これは山谷に隠れ住む人、世間を軽んじそしる人、落ちぶれた気持ちで潔白を守るために淵に身を投じるような人が好む事である。

仁義や忠信について語り、うやうやしくつつしみ深くして他人に謙譲でいるのは、道義の修養をするにもっぱらの人である。これは平穏無事の世に住む士人、教育に携わる人、ぶらぶらとのんきに暮らす学者が好む事である。

すばらしい功績を口にし、大きな功名を立て、君臣の礼を定めて上下の階級を正すのは、政治にもっぱらなだけの人である。

これは朝廷に勤める士人、君主を尊厳して国家を強固にする人、功績を挙げて領土を拡大する人の好む事である。

山林や沢地に住みつき、広々とした静かなところにいて、魚を釣りながらのんびり暮らしているのは、逃避をしているだけである。これは江海に隠棲する士人、世を避ける隠遁者、のんびりと暇のある人が好む事である。

息を吐いたり、吸ったりして深呼吸をし、古い気を吐き出して新しい気を吸い込み、熊のぶら下がるような、鳥の身を伸ばすような格好で体操をするのは、長生きをしようとしているだけである。

これは道引の士、肉体の鍛錬をする人、彭祖(ほうそ・古代の有名な長命者)のような長寿を願う人が好む事である。








三国志


三国志から「五禽戯」


~五禽戯の歴史~

五禽戯 ごきんぎ は1800年間の長い歴史を持つ、中国発祥の体力増強法で虎・鹿・熊・猿・鳥の動作から編み出された動気功です。

史実に出てくるのは由緒ある歴史書「正史三国志」 作者は「陳寿 233~297」

の中の魏書に記されている「方技伝 第二十九 華侘伝」があります。


華侘(かだ)、字は元化、沛国 譙県(現在の安徽省亳州市)の人である~中略~

養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳にもなるはずだとしたが、見たところは若々しかった~略~


華侘は語った。

人の身体というものは働かせることが必要だ。ただ極度に疲労をさせてはならない。

身体を動かせば穀物の気が消化され、血脈はスムーズに流れて、病気も生じようがない。

ちょうど戸びらの枢が(いつも回転しているので)朽ちることがないようなものだ。

(※これは良く開く扉の軸である中枢は虫が食わない、そして流れる水は腐らない という言葉があり、ドアの軸は回転する場所でそれを身体全身の背骨や関節周りの所々に例え、水は血流やリンパの流れに例えています)

さればこそ古の仙人たちは導引と呼ばれることを行い、熊のように木にぶらさがり、鴟(トビ)のように首をめぐらせ、

腰や身体を伸ばし、それぞれの関節を動かして、身体の老化を防ごうとしたのだ。


私にも一つ長生法があり、それを五禽之戯(五つの動物の運動)と名づけている。

第一が虎、第二が鹿、第三が熊、第四が猿、第五が鳥である (それぞれが動物のかっこうをして躍ねまわるのだ)


この運動によって病気が予防できるだけでなく、足腰も鍛えることができて、導引の用に当てることができる。

身体に調子の悪い所がある時には、起き上がってどれでもよい、一つの動物の戯を行えば、びっしょりと汗をかき、 

身体は軽々とし、腹も減って食欲がわく。

学んだ呉晋はこの術を実行し、

年は九十あまりにもなったが、目や耳はすこしも遠くはなく、歯は一本も抜けることがなかった。とあります。


五禽戯の郷、中国安徽省亳州市にて

第一回中国健身気功博覧会

「神医 華侘」の創始した中国 安徽省 亳州市に伝わる 伝統気功五禽戯の第57代目伝人「薫文煥 老師」と第58代伝人「周金鐘 老師」の紹介です(※途中で私も何回か登場します)





魏志倭人伝

そしてこの五禽戯の記録のある三国志は、

後漢(中国では東漢)時代の三国「魏」「呉」「蜀」の歴史書であり、私達日本人にも馴染み深い「魏志倭人伝」があります。

魏志倭人伝の「魏誌」は正確には「魏書」のことで「東夷伝」の中の「倭人」の記述のことをいいます。

「魏志倭人伝」

倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國。

倭人は帯方郡(たいほうぐん:現在の韓国ソウル付近)の東南の大海の中にあり、山に囲まれ島を連ねて国を造っている。倭(わ)国はかって百余国に分かれ、漢(後漢)王朝の時に朝見する者もあり、魏(ぎ)の時代から使いが行き来したり言葉を通訳できるのは30国程度である。

~中略~

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳醍可七萬餘戸。

弥国の南(実際は東)方向に行けば邪馬台国がある。倭国の首都邪馬台国には女王が君臨している。不弥国から邪馬台国へは海路で十日、陸路では一月ほどかかる。この国の首長は伊支馬、次席は弥馬升、三席は弥馬獲支という、この国には住家が七万戸余りある。

~中略~

其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐暦年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居処宮室楼観城柵嚴設常有人持兵守衛。

倭国は元々男王を立てて七、八十年間ほど統治していたが、その後内乱が起こり暦年(暦の一年間、宋書の「桓帝と霊帝の間」の記述から西暦167年)相争い、最終的に卑弥呼と言う一女子を共立して王とすることで内乱が治まった。卑弥呼は、鬼道の宗主として人々から崇められていた。

既に相当な年配(およそ50歳以上)に達しているのに夫や婿はいなくて、弟が政治を補佐している。女王に就任して以来、人々は卑弥呼の姿をほとんど見ることができなかった。女王は自ら千人にも及ぶ婢を侍らせ、男子はたった一人、食事の世話や臣下からの言葉を女王に伝えるために女王の居所に出入りをして、宮殿には宮室、見張り台、城柵を厳かに設け、常時役人が兵を引連れて守っていた。