花2


春爛漫の時候を迎え、世の中は節目の移り変わりの時期で、やはり自身の思い出にも思いを馳せる時があります。

想うと自分の人生での思考感覚での大きな転機は1987年の春に大学受験を失敗し、予備校へ通う浪人生時代19歳の頃でした。

30年前の1985年の春に高校1年生の試験休みから春休み全部を使って、初めて中国へ行き、上海体育学院に短期留学で武術を学び、同時に伝統武術家、徐文忠老師にも指導を賜りました。

このことがきっかけで今でも続くエンドレスな中国との往来が始まりました。

それから1987年の春から1年半ほど徐老師は長期滞在で、安徽省武術隊で学んだ楊承冰老師が3ヶ月間指導のために来日されていました。

私は大学受験に失敗し、板橋区で下宿生活をしながらも徐文忠老師と楊承冰老師について学び、指導助手として一緒に教室指導へ周る仕事をしながら受験勉強を行っていました。

(※今から思えば、勉強だけでなく、武術との両立だったことで勉学の集中の質は高かったように思います)

ちょうど予備校の国語・現代文の授業で芥川龍之介の作品を扱い、その中で「侏儒の言葉」の一文に深い感銘を受けました。

「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である」

自然

我我の自然を愛する所以(ゆえん)は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のように妬(ねた)んだり欺いたりしないからである。

運命

運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う言葉は決して等閑に生まれたものではない。

芸術

最も困難な芸術は自由に人生を送ることである。尤(もっと)も「自由に」と云う意味は必ずしも厚顔にと云う意味ではない。


この時のことは今でも忘れられません。

大学受験の勉強とか、そういうことではなく、私が学問に目覚めたきっかけだったと思います。

それから学部を中国文学から国文学へ変更し、翌年に東洋大学に合格しました。

そして思えばここから日本文学者的な視点というものを学び、そうした性格での側面を私は持つようになりました。


「侏儒の言葉」は短編集で、いくつかの「警句:アフォリズム」が載せられています。

その他では、

小児

軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。

この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

武器

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。

しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。

地獄

人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。

こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況(いわん)や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。

危険思想

危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。

支那

蛍の幼虫は蝸牛(かたつむり)を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新らしい肉を食う為に蝸牛を麻痺(まひ)させてしまうだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。

処世術

最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

彼の幸福

彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!

などなど・・

今想うと芥川さんは明治の後半、大正、昭和と生きて35歳で、「ただぼんやりとした不安」という言葉の遺書を残して、この世を去りました。

19歳の自分が影響を受け、今は芥川さんの年を遥かに越え、こうして教わったことを実践して今現在に有意義な生き方を選べたことについて感謝の念を思います。