横浜港


今日の横浜は朝から美しい青空が広がり、清清しい気持ちになりました。

屋外の河川敷から空を眺めているうちに、何かしら、思えばこの一年間を振り返り、私が行った「中国的戦略計画」の成果がうまく行ったことに嬉しさが込み上げてきました。

私は確かに、普通の日本人の思考以外での「中国的思考」から物事を考えて計画を起こすことがよくあります。

そのことが、普通の皆さんからは訝しがられることもよくあります。

しかしながら、これも長年の中国との付き合いでは大事なことなので、行うべき時期の時は決行するようにしています。

先月11月に北京APECが開催され、日中間での関係改善が政府間や財界でも再開することが決まり、この2週間ほどで、もう既に様々な面で動きが始まりました。

通常の日本人の感覚だったら、今はもう12月、先月の北京APEC期間で日中双方での有力な政財界のトップ同士が会い、今後の計画の下準備の内容を検討し、

これから来年の4月以降から具体的な経済活動や文化交流活動の準備に入り、本格的なスタートは10月ぐらいになっていくことでしょう。

今後の北東アジアの発展計画で有能な財界はおそらく、来年の春節後に話をまとめ、4月から活動を開始できるところもあるでしょう。

私は実はもう、この秋11月の日中関係改善になることを事前に予測して、実は上海との交流を開始し、実際にずっと将来にまで続く活動を今年の時点で具体的にスタートし始めました。

誰にも気付かれずに、誰もホイッスルも吹かない、静かな「フライング・スタート&ダッシュ計画」でした。

今年は大大成功だったと思います。

日本人的感覚というのは、決まってから、次に決めて、そしてまた決まってから、次へ、という感覚に慣れすぎていると思いますが、

中国のエリート感覚というのは全く異なり、

決まる前には、もう様々なシミュレーションで「計画」をいくつか準備をしていて、

決まった時点で、

その時から、すぐにでもスタートする、という感覚があるのです。


私は来年の2015年で中国との交流30周年になります。

横浜と上海は友好都市であり、鎌倉時代からの交流や、中華民国時代の海での交易で繋がっていた長い歴史があり、気付けば深い「縁」で繋がっていることを思います。

その記念すべき年を始める前に、

大きな展望と大局観を以て、中国側と一緒に行う武術交流活動全般での計画準備は、

もう昨年の8月に花妙林老師の来日時に話し合い、

今年2月の春節で計画をスタートする約束をし、5月と10月に行った2回の交流活動の成功を以て、

もう来年以降は、非常にやり易くなりました。

その時に、ふっと感じたのは、

花老師は日本に留学されたことがあり、日本語を普通に話し自由自在に見聞きをして現代日本を研究して仕事に活かしています。

私も19歳から普通に中国語で自由な会話をこなせるようになり、多くの29年間に毎年行ってきた往来の中で、

「中国」を身体で知っています。

私と花老師同士の会話では、中国語と中国語でのやりとり、

花老師から日本語で私に、日本語と日本語でのやりとり、

そして時折、

花老師が日本語で私に聞いてきて、私が中国語での返答することもありますし、

花老師が中国語で私に聞いてきて、私が日本語での返答することもありますし、

そして、

私が中国語で花老師に聞いてきて、花老師が日本語での返答することもありますし、

私が日本語で花老師に聞いてきて、花老師が中国語での返答することもあります。



思えば、

「日本人」の見える「中国」や「中国人」というのは、実は、

「信頼ある人物同士の相互感覚にて、言語での直接会話を行える、ということが、歴史的な中で行えていなかったのでは・・」と感じました。


何かしら、ふと「日本」と「中国」との交流には、相互に言語感覚の違いや、文化的な面で思考意識が異なることが、

相互国家間での、誤解が生じ易いことがあるのでは・・

そして、実はこれからは、今までに出来なかった「日本~中国」「中国~日本」での会話の交流も交易も自由自在で、歴史的に初めて行える時代になっていくのでは・・

との予感を、直感にて思い、

いくつか歴史的史実を調べて確かめたくなったことがいつか生じたので、

雲ひとつない空を見て思い立ちすぐに、

馬車道にある神奈川県立歴史博物館に行ってきました。


今回に調べたいことがあったのは、

「伝統的日本人とは、北東アジア地域で、どういう存在だったか」というテーマでした。

それは私の血筋では、一番古いものでは、出羽:山形の蔵王近くに私の名字の生まれた先代の土地があり、それから私の一族は信州:長野へと移り、

鎌倉武将、畠山重忠が出た深谷:埼玉、それから東京と来て、私が今拠点とする横浜があり、父から私を含む2世代は武蔵国:関東文化の中で生きて来た人間だということです。


今日博物館での資料や展示物の数数を調べてながら考えていくうちに 解ったことでは、

およそ今から、1万年前の関東地方は石器時代で、神奈川県や東京、埼玉県あたりにまでは既に、私達の住む、地域一帯では伝統日本人たちの祖先が営みを行っていて、食生活では、海や川、山で狩猟を中心に行っていた考古学的な調査事実が出ています。

それから、紀元前10~9世紀には稲作が朝鮮半島から長崎付近~九州一帯にもたらされ、次第に日本列島全体へと広がっていきます。

日本人の伝統日本食文化といえば「米食文化」であり、その稲作の伝来と普及の歴史を見ると考えさせられることがありました。

そして紀元前9~8世紀頃に中国地方、四国地方へ稲作は広まり、8~9世紀頃に近畿地方に広まり、7~6世紀頃に中部地方全体(長野を含む)にまで広まります。

関東地方へは、3~1世紀ほどでようやく伝わります。

そこで意外に感じたのは、実は5~4世紀頃には北陸からの海沿い経由で新潟~山形には稲作が伝わっていた事でした。

稲作と一緒に、集落での共同生活文化も広まり、そこから弥生時代の中期~後期には、集落同士での優劣を決めるための祭り文化が起こり、

それからは、剣や鏡などの鉄器が稲作の伝播をしてきた道筋を経て、日本全国での豪族社会が生まれ強者を決めるための、

戦闘の歴史が始まる、古墳時代への幕開けになった、ということでした。

「日本から出たことのない人達」意識からすれば「もたらされた」

実は、

「中国大陸と日本を往来し文化を伝播してきた人間たち」意識からすれば、

より好い社会を構築させる為に「もたらせた」

先ずは人の往来。

稲から鉄器、そして言葉の発音、筆記としてでの漢字文化の伝来。

そして仏教、儒教などの信仰感覚のすべて・・

これからの21世紀の国際社会の動きの流れでは、国連のリーダーシップをも牽引する立場になったという結果事実・・


こうして考えてみていけば、

伝統「日本人気質」も元々は、出身地も系統も多種多様であり、

日本人同士でありながらも、まったく相互理解をも行わず国内で大乱を起こしていた「倭」の時代から、

「大和政権」の誕生、仏教伝来へ経て「日本国」となっていく移行期を思うと、元々私達の祖先での日本人同士たちも相互理解を初めはし合えず、

初めは古代中国との交流があった朝鮮半島から、そして直接に中国からもやって来た来た渡来人たちとの地道な交流があったと思います。


当時の素朴な伝統的日本人たちは健気な気質を以て、海外の北東アジア文化の漢字文化などの多くを、稲作の広まりのようにコツコツと学び、広めてきた日本民族の独自の努力の数々も感じます。

こうして歴史を見ていくと、明治維新からは英国、ドイツ文化、戦後は米国文化が更に大量に入り、

現代では「日本人」「日本国」という部分を感じるにおいてでは、現代日本社会での「日本人」は多種多様も更に欧米化もあって複雑に複雑化している、という事実でした。


何か、直感で思ったのは、

便利な現代日本的生活文化の恩恵を受けながら、我々はこれからもう一度、石器時代や縄文時代、弥生時代の流れの中で、

当時に入ってきたアジア文化を喜ぶような「健気さ」や「感謝の思い」を尊ぶべきのようにも感じています。


今日、私自身はこうした歴史的事実を思考し、再認識が出来た時点で、

長い間の大きな呪縛から精神が開放された心地になれました。


私も歴史長き、北東アジアの中で生き抜いて来た伝統的日本人の末裔。


この土と一緒に生きて、風に吹かれ、

そしてこの土にまた戻れれば、それでいい。


そんな、何かささやかだけれども、勇気を歴史から学べた気がしました。

今までには、たくさんあったけれど、そしてこれからも、いろいろあるだろうけれど、

「日本人に生まれてきて良かった」と実感しました。