
今日は、しっとりとした秋の雨の落ちてきた朝でした。
先ほど、屋外に遠く霞んだ緑の丘を眺めてから、ふと見やれば少しずつ紅葉の進み始める、もみじの葉を見つけました。
この晩秋を前にしめやかな感涙のような、この時期の雨が私は個人的に好きです。
この秋は、何か不思議な穏やかな落ち着きを感じられ、懐かしい記憶や多くの思い出を思い出したりします。
最近、ふと想ったことの中で、
芸事の技というのは、細さと太さの融合の連続の中で構成されていくのではないか、なんて感じるようになりました。
昨日は午後の指導の後に、晩は少し時間に余裕があったので、居合いの稽古を一人黙々とこなしました。
稽古の後に、居合い刀の剣先は糸ほどに繊細で、しっかりとした木刀、しなやかさのある竹刀とを見つめ、
武具の美しさについて、ぼんやりと思っていましたところ、
細さと太さの融合美だ、という感覚を受けました。
雨も夏はしずくが太く、秋は細く落ちてきます。
樹木は根が最も太く、枝の先端が一番細くなっています。
人間の構造は、大脳から出てくる神経や血管が最も細く、下に行けばいくほど太くなります。
大自然の構造が、そうした共通したシステムで出来ていることと関係していると思います。
私は音楽では弦楽器の高い音の微かな細さと音低の力強さとのコントラストが好きです。
自分自身を思えば、やはり体格的、性格的には細く、
人格においても、元々あまり武道に向いた性格ではなく、少年時代のある時から、まさしく陰陽の逆転で、
武人的な性格が形成され、
気付けば今日までの武芸者人生として生きて来た時間が過ぎていきました。
自分自身の武芸的な感性から思うことは、
大には小で挑み、小には大で応じ、
低さには高さで応じ、高さには低さで応じ、
細さには太さで応じ、細さには太さで応じ、
遅さには速さで対抗し、速さには慢で対抗してきた、
そんな感覚があります。
人間の性格も似ていて、音声の高さや低さ、表情の大きさや小ささ、
自分自身の内面での感覚にも、思うことがあります。
中国語で楽しむ、という言葉の中に、
「感興趣:日本語で細かく訳すと、趣が起こり、それを感じとる」
という表現をします。
芸事に挑む時の心の様子というのは、面白いもので、
日々、2回同じものはない、
ということで、
これは、鴨長明の方丈記にある、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも もとの水にあらず」
水は偉大で永遠の命でもあります。
流される快さもあるし、流される不安もあるかも知れないし、
あるいは自身で泳ぐことや、船を漕ぐというような流れを創ることもできます。
日々は、この似たような出来事の連続であり、芸に生きるとは、まさしく流れに任せることであり、
自身も流し、流すことでもあると感じます。