
今週は熱かった夏が少しづつ遠ざかり、涼しげな空気に横浜も包まれるようになりました。
中国の武術界でもこれからの大きな展開のスタートとなった「中国武術運動大会」「南京ユース武術大会」も終わり、協会首脳陣からの所感や大会期間中での会議内容の多くを把握することができて、私達の活動での目標もしっかりと持つことができるようになりました。
本場中国でもそうですが「中国武術」という世界観では、流派や門派、個人個人としても複雑で、その評価方法や考え方に差異がとても大きく、日本でも多くの皆さんも同じような感想を感じておられるだろう、と思います。
私自身の経歴は日本武道の剣道から出発し、独自のトレーニングを経て13歳からは初めは簡単な武術基本功と太極拳を習得し、14歳で短い期間でしたが北京から来日された伝統長拳の花拳の名手であった謝志奎老師から伝統的な長拳の技法を学び、
15歳で杜進老師に師事し、16歳で上海にて師爺の徐文忠老師から器械と対打を学び、同時に上海体育学院でも邱丕相老師からも学びました。
そして後に楊承冰先生、徐淑貞老師、何福生老師から指導を賜りました。
振り返れば私は元々は伝統武術系統の先生方に指導を受け、考え方、技法、功法への資質を10代で学び、20代30代はひたすら練功のみに意識を向けて来ました。
私は日本人指導者がよくなかった、という意味で考えていたのではなく、当時の情報を調べながら感じたことは、日本国内組織のものの多くに「体型」「技法」「姿勢や考え方:態度」というところから、
1978年の日中平和友好条約締結以前には国交が途絶えていたことで相互の往来が出来なかったので当然ですが「1980年代の時点で日本国内には中国武術は存在していない」という事実を、まだ少年でしたが武道経験者としての視点で見えていたからでした。
20代は武術競技に没頭し、花妙林老師、湖北省では袁林林老師から指導を受け、大きな影響を受けました。
30代はもう一度上海体育学院に戻り、養生功である導引術や五禽戯、八段錦など一番最初に創設された健身気功を学び、今までの武術経歴にも縁ある伝統功法を習得し、フィットネスの仕事に活かして来ました。
最近は日本の医科学研究にも没頭し、国内の健康問題の多くの要因について調査し、同時にメンタル面での問題になる事象についても研究し、最良の方法を導き出し、実践と普及を行うようになりました。
そして本場中国での標準化された中国武術段位システムを把握し、日本向けの指導方法を考え、昨年と今年とでいち早く中国武術段位制考評会を行いました。
今私が考えて行っているのは、しっかりとした「武術標準化体系を確立させる」というものです。
そしてこれは技法での標準化方法として、本場と全く同じ方針でもある「練打結合」の実践を重視し、各拳種の中での対打套路をこなし、散手技法・用法を行えて単練套路とを結びつける、というものです。
そこから教養として武術教育(武道教育)、武術文化、健康増進、発展させるための振興をすべて範疇と私達はしています。
それに今や国際的に広まりを見せているのは国際武術人口は6000万人、中国国内は7000万人で、中国武術的世界観が毎年ムーブメントが大きくなっており、この先は、かつて人気を集めた米国人的発想で、よくいえば手っ取り早く、悪くいえば安易的感覚な勢いで、
相互の心身や生活なことも含めた最終結果についてでは無責任的に行わせる非東洋思想な格闘技と称される分野には関心を持って見ていたことはありますが、興味はありませんでした。
そうした野蛮や残虐性を感じさせるものへの評価は今後は小さくなっていくように見えています。
中国武術での対打は行ってみれば判るとおり、本当の手合わせで、どちらが上とか下とかの優位性のみの追求を図る、というのは人格形成において未成熟な人が考えることであり、
実際の技法を感じて学ぶ、ということが一番尊くて、相互の信頼や友情に繋がるものです。
私は6歳から「剣を交える」という感覚重視の剣道から始まり、すぐに中国伝統武術の先生方に学ぶために少年時代は何でもやってきた感覚があるので、私の感想では実在する「現実の武術家」にしか憧れませんでした。
そして武術活動を長く続けてきた、日本国内での武術事情が複雑化してきた理由を最近全体像で振り返って判ったことでは、
先ず一つめは各個人個人でのスタートに何を持って関心を持ったか、でその人の武術方針や思考に影響を与えていることが判りました。
私は若い教え子たちにも語りますが「映画」や「マンガ」などに出て来る人物はタイトルテロップに「フィクションです」と流されているように実在する者ではなく、確かに私も大きな感銘を受けたものはありますが、
あくまでそれは人気俳優が演じていたもので、シナリオがあって何シーンも撮って一番いい出来の動画のシーンを繋げているもので、
漫画家が書いているのはイラストの連続でペン先から紙の上にインクが出て人物像が描かれているもので、それは見せ方上手というのはとても理解できますが、動いているものではない、ということです。
私は実際にそれぞれの人生を有意義に生きるためのそれぞれに「武術」の実践、現実の連続になっていって欲しいと願っています。
ある意味での精神性を学ぶ、情操教育としてはとても重要ですが「本当は実在しない」これらを目指しているような人を見ていると、それもまた一つの仮想現実:バーチャル・リアリティーで、
自身を達観して行っていなければ、それもまた現代日本社会で起こりやすい問題でもある「精神性妄想」が強くなってしまう傾向があるので、注意がかなり必要だと思います。
そして雑誌などで出て来る研究家の理論に洗脳に近い影響を受けてしまっているのも近いと思いますし、あるいは両方というのもあるようです。
そして私の上の世代から存在していましたが、直感で感じているのは現代日本社会で受けるストレス発散で、「人を叩いてみたい」という欲求が行動に表れている方です。
これは現在でも何らかのかたちで表れていて、社会や学校などでみられる「嫌がらせ:イジメ」「幼児虐待」や「動物虐待」
アメリカ社会では、よく起こっている銃の乱射などにもあるように、現代日本も同様で欧米資本主義的空間で起こり得る、精神疲労から始まり、強度になると精神性障害から起こる事象だという事実の確認が全世代的にも大事だと思います。
私が長く武術生活の実践を重視して行ってきて、思想哲学を重視し、自然との共生、地域社会での人と人の結びつきを重視してきたことは、
実は深層心理では、同じこの現代日本社会での状況の中で生きていくのに、一番最良の方法の実現化をずっとやってきたことだと判りました。
シンプルに考えれば「武術標準化体系を確立させる」というのは、
この現代日本社会においてでも、如何に楽しく生活していけるための「標準化」ということに繋がっていることでした。