
日本国内での武術普及とより大きな発展を思う時に、一番重要なのは「武学」教養だと よく感じることがあります。
よくある「言葉の一人歩き」や「単語の羅列」で武術理論を展開する状況をみて、やはり言動一致の活動が大事です。
中国武術世界は伝統中国の漢学の要素が深く、そういった面で西洋スポーツ感覚や、エンターテイメント性もありますが、本質的に体得していくためには「武学」をしっかりと学んで欲しいと思います。
先日に理論講習会を行い、この2週間ほどは、そうした一般教養を記述してきました。
本当は専門学校のように展開を、と考えていましたが、需要と供給が現代日本社会ではバランスがとれないので、現在は将来へ向けた指導者養成、そして今後に役立てたいと思います。
よくある質問について、の感想ですが、
「中国武術はカンフーですか」というものや、「太極拳はカンフーですか」
「カンフーは強いですか」「太極拳は武術です」「武術と気功の違いは何ですか」あるいは同じように「太極拳と気功の違いは何ですか」
この5つが挙げられると思います。
こうした単語をただ繋げてだと、互いに何を知りたいか、何を知っているのか、のピントが両方ともに呆けてしまっています。
たまに現代日本社会で人々の会話の内容を聞いていると「単語のやりとり」をするための「山びこ的」コミュニケーションの習慣が見られますが、
武術世界では、こうしたことはまったく不適切なことになります。
日本においてでの印象では私は先ず日本で最初に広められた映画やアニメ、コミックなど「エンターテイメント的世界」をよく「カンフー」というカタカナで印象を憶えていて、そこを基準にいろいろとデータをインプットしていく構造を感じています。
ですから、初めに「存在」が実在するものでなく、演じられる、あるいは、フィクションの世界を実在世界と分別がつかない「仮想現実:バーチャル・リアリティ」世界から意識を外すこと、
あるいは西洋スポーツ的競技項目からも意識を外さないと、正しい世界観が見えなくなってしまうことに認識を置いて頂きたいと思います。
(※あくまで「フィクション的世界観」はフィクションだという現実意識です)
先ず「カンフー」という単語ですが、これは漢字で書くと「功夫:gongfu:ゴンフー 北京語読み kongfu 広東語読み」になり、
「腕前、能力、時間」の意味を持ちます。
つまりは中国大陸での明代(日本では室町時代)~清代(日本では江戸時代)の時期に中国武術世界は大きく発展し、多くの拳種が生まれ、現在に私達の見る武術スタイルはほぼこの時期にまとまりました。
よくカンフー映画での題材に描かれる清朝末期(日本は江戸末期~明治初期)は満州族の建てた王朝の清は多くの民衆である漢民族を抑えつけ、内乱が多く起こっていました。
そこでよく武術家同士の腕試しをする前に「功夫を試してみるか」「あなたの功夫は如何程か」「私の功夫を披露しよう」
そういった言葉のやりとりが発端になっています。
これは現在でも先生方の会話でも「○○さんの功夫はすごい」というように使われています。
そうした意味においてで「カンフー:功夫」の意味合いはおそらく間違っていないと思いますが、具体的要素に欠けている印象を受けます。
従って、
「中国武術はカンフーですか」というものは、「功夫:カンフーの高い拳種や技法を持つ門派・流派のものが中国武術世界を構築しています」ということが単語からすると的確であり、
「太極拳はカンフーですか、武術ですか」というものは「功夫:カンフーなき太極拳は太極拳とはいえず、武術と名乗る以上は武芸でなければ武術とはいえない、ということです。
「カンフーは強いですか」は、
「精神的肉体的攻防技術的に高めていく世界観が功夫:カンフーですから、武術の「武」という文字は武器である「戈」を「止める」という意識から起こるものであり、弱くて「戈」を止めることはできないので、自らを常に精進し精神面において強くなることを目指す」
ということになります。
そして「武術と気功の違いは何ですか」あるいは同じように「太極拳と気功の違いは何ですか」
ここからは正しい武術理論から解説します。
中国武術運動の特徴というものは技法的に「武術五元素」「六合」と「八法」が挙げられます。
武術五元素は以前は四撃:打つ、蹴り、掴む、投げるといっていましたが近来はそれに肩や背中などでぶつかる:タックルを加えた五種類になり、この5つの武術技法を武術五元素としています。
六合とは内三合が「意」「気」「力」となり、外三合を「両肩と両股関節、両肘と両膝、両手首と両足首」との自在なる動きの融合をいいます。
そして八法は少し概念的に重複しますが、
眼法、手法:腕全体指先までの方法、身法:身体操作方法、歩法:足運びや脚全体としての操作方法の技能的四法と、
精:体内に充満するエッセンス、気:気付き、気遣い、呼吸法、神:大脳における反射、反応力、力:敵対する相手の力を封じ込められる「力」の四法を合わせて八法といいます。
ですから太極拳も正しく武術項目とする門派、流派、日本国内では組織は、こうした要素を持ってこそ「武術」であり、「功夫:カンフー」というものです。
そして気功運動の特徴では基本的に六合と八法は同じです。
硬気功では堅い石を手や頭で割ったり、槍の先に腹を乗せる、などは武功としての気功という認識です。
そして健身気功のような気功運動は軟気功ともいいます。
その場合に六合での内三合の「意」「気」「力」の流れにもう一つ「意」の前に「心」となります。
「心至れば意に至り、意に至れば、気に至る」という言葉があり、
「心:心の中が雑念なく純粋な虚空」の状態であれば、次に「意:おもい こうしよう、とか、こうしてみたいとかのいう大脳意識」が高まり、「気:気付く、呼気と吸気の呼吸力の良好的感覚」が高められ人間の行動感覚にはより良い効果を得られる、ということです。
すべての人間活動において、逆に「気力」が無くなるのは、その前の「意:おもい」が弱くなるからで、「意」が弱くなるのは、その前の心の状態が弱くなるから起こります。
こうした人間研究は今では医科学的世界観でも一致するもので、実践と伴っているということは実際に一歩リードしています。
ですから健身気功などでは「心」「意」「気」が内三合となり、これを安定させる功法を静功といい、上半身と下半身の動作制御では外三合は同じであり、それを動功といいます。
ですから健身気功でも内在意識が「心意気」からステップを上げて「意気力」になり、「精」を加え、「眼手身歩」の四法で八法になれば、
伝統華侘五禽戯のように気功運動から武術項目になっていくものもあり、
逆に八法の意識や武術五元素をなくしていけば太極拳も武術より気功的、体操的になっていくものもあります。
武術世界には、中国の伝統文化的思想として「動静無窮」「変化無端」という言葉があり、
「動静無窮」は大自然の力には春夏の陽、秋冬の陰、太陽を陽とすると月は陰、天を陽とすると大地は陰、男性を陽とすると女性は陰、身体では上半身を陽とすると下半身は陰。
光差せば陰があり、陰は光の逆の姿でもあります。
半月ほど前の夏至があり、そこから6ヶ月先には冬至があり、陰陽二気は常に休むことなく動き続けます。
すべてに動き、があれば静けさがあり、それは永遠に窮することはない。
というもので、
「変化無端」は季節は常に変わり、生き物の世界は絶えず変化するものであり、小さきものは大きくなり、大きくなったものは小さくなるのが必定で、
その現在から見た時空の世界は過去も端がなく、未来にも端がない、
つまりは変化すべてが真実であり、それは誰にも止められず、過去未来の両端はないのである。
ということをいっています。
つまりは大自然も人間も世界も地球も「動静無窮」「変化無端」であり、
武術世界観も、各自身の感覚でも「動静無窮」「変化無端」であることです。
逆にこれも、動きがなく、静けさもなければ窮することに陥り、変わることに応じられなければ端がどんどんと短くなり、行き詰ってしまう、ということを教えてくれます。
これはすべての人間活動の生活習慣、精神性でも同じであり、ある意味では本質を理解することにつながります。