
今回の上海への訪中で、私にとってとても重要だったのは王金香老師・先生との再会の実現でした。
1984年の秋に当時は老舗で日本にいちはやく太極拳だけでなく本格的な中国武術全般を取り入れていた全日本太極拳協会に移籍し、
来日されていた杜進先生に師事し、1985年の春に初訪中し杜先生の師匠「徐文忠」先生に学ぶことができました。
この時は午前~午後は上海体育学院で学び、夜は徐文忠先生の自宅で学びました。
当時は外国人は民間人との交流は政府から認められていなくて、こっそりと学びました。
拳の握り方から直され、先生が言う「拳を握る」これがしっかりできなくて「練拳」は何千回、何万回を行っても効果は上がらない」
本当に今から振り返るとその通りだと実感します。
徐先生はその後の5月に一ヶ月間ほど協会が招聘し、日本でも指導を受けられました。
この時は対練をかなり学びました。
1986年の秋にはお嬢様の中国国家審判長を務める徐淑貞先生が来日され、指導を受けました。
そして1987年の春から徐文忠先生は安徽省武術隊高級教練の楊承冰先生と共に再来日され、指導を賜りました。
楊先生は1987年の中国全国運動会の予選大会と本戦のために帰国されました。
私はいつも頭の中が武術一色なのは、13歳の時から変わらずで、この年は当然大学受験に失敗し、予備校生でした。
しかし午前から午後まで協会職員として仕事をして、電話番や事務仕事をこなし、先生を教室に案内し、通訳をしながら太極拳や武術を学ぶことができ、とても嬉しい日々でした。
そして夜は予備校での授業を受けて、帰宅したら勉強してという感じの毎日でした。
1988年になり、徐文忠先生の愛弟子で1970年代の女子の中国武術大会の連続優勝者の王金香先生と妹さんが来日され、徐先生の助手や、その他の教室の指導を始めました。
(日本でも有名な李連傑:ジェット・リーは王先生よりも年少で王先生が女子チャンピオン時代に若きチャンピオンになった時代のことです)
そして王先生とも共同生活が始まり、長拳や刀術を学び、いつも武術三昧の生活で本当に毎日が輝いていました。
しかしながら協会の実情は分裂が始まり、内部クーデターが起き、1988年末に理事長が夜逃げして、すべての運営が行き詰ってしまいました。
思うと、ここでドサクサ紛れの下克上をする者もいたし、身勝手な独立をする、という現代日本社会のドス黒い人間関係の醜さを感じました。
思えば、ここから今でも続く戦いの火蓋を切って落とされたのだと思います。
その後、徐先生と王先生は蘇東成先生からの経済援助があって無事に上海へ帰国できました。
私は、徐先生や王先生に大変申し訳なく思っていました。
徐先生は蘇先生からの要請で米国へ指導に行き、帰国後に他界されたことを知り、私は大変悲しみました。
進学した大学では中国語を学び、そこからは普通に会話ができるようになりました。
そして王金香先生のお兄さんの「王金良」先生が来日され、お会いすることはできませんでしたがご活躍の情報は聞いていました。
その後に王金良先生も帰国され、王先生の生徒さんが横浜武術院のメンバーに加わり、活動を盛り上げてくれることになり、
そして今日に至ります。
「武術の縁」に感謝します。
昨年の8月に花妙林先生が来日され、その事情をお話ししたら「上海で再会させてあげる」と言ってくれました。
先日は、王金香先生と再会し、本当に長い時間に「その後」を語り合いました。
本当に楽しかったです。
私は次回には復旦大学での研修後に「王金香先生の武術館に訪問し、武術交流会を行います」と約束をしてきました。
夢はまた夢を膨らませる。
そんな出来事でした・・