
お断りを申し上げておきたいと思いますが、今現在の年齢はこの世に生を受けてから、45年2ヶ月と26日が過ぎたところです。
50歳の皆さんからは5年下。55歳の皆さんからは10年下。
60歳の皆さんからは15年下。65歳ぐらいの皆さんからは20年下です。
自分の今までの人生には、振り返れば、かなり納得ある生き方を行ってこれたように感じています。
人:老若男女それぞれ、思想:生き方・考え方それぞれ、生活習慣それぞれ、です。
今やそれぞれが、それぞれで、国際的で複雑化した中で、それぞれでの時間や空間を考える。
国家や民族を考える。
知性や教養を考える。
時代や時勢を考える。
そして「直感」とか「本能」とは、何かを考える。
それは「良くも悪く」も、あるいは「良しとするか、悪しきとするか」
判別や是か非か・・
今までには、限られていた情報収集能力の「個人感覚」においてでは、
「それらを」「感じられなかった」「想像をも出来なかった」
そんなことの実現が今は「できる時代」になりました・・
そんな空間と時流の中で、ふと最近の自身の眠れる夢の中で「時流」と「時代」にタイムトリップしました・・
「人間、血は争えない」とかいいます。
私は解釈するに「争う血筋は、永遠に争い続けることをあきらめない」という意味だと思います。
そして「馬鹿は死ななきゃ治らない」といいますが、それは違って「馬鹿は死んでも治らない」という方がよいと思います。
私はよく方々で申し上げておりますが「まともな人間」ではありません。
今現在は「常識は非常識」なんて、いわれ、
お隣の中国は、今現在国際経済に大きな影響を持ち、アメリカ国家と財界・企業体までが頭を下げる時代になりました。
振り返れば・・
今から、10数年前に、ある人から「貴方は、まったく常識のない人なんですね」と言葉は丁寧でしたが態度的には罵られた感じで、
その答えに「あの~、常識があったら1985年から、年がら年中に中国大陸を好きに思って何度も往来なんかしないし、先ずこのご時勢で中国武術なんかやりません」と答えたら、
「ん、ふぅ~・・」とため息をつかれて、とても嫌なものを見る目つきであきれられて行かれてしまいました。
その時は正直「あんたなんかに好かれたかないね」と直感で思いました。
逆に言い返したことでスッキリしました。
(その後は、想いっきり憂さ晴らしに行ったのは言うまでもありません)
時折、何度も同じ言葉をここ数年に何度も繰り返し言ったり、こうした場所に綴ったりしています。
そこで、私の親友や知人、若き私の後継者の教え子たちや、会員さんたちも思うかも知れません。
それは現代日本社会のメディアから流されてくる、無意識的な「やり方」で行ってくる問題点の正体をしっかり捉えたことで、その上を遥かに行くために、こうした文字での伝達と実際にレッスンで発言動と実践の謂わば新時代での「三つの神器(※神功)」的として行うようにしています。
今年は、桜の開花日の今日明日を見込んで、今年の花見の話しネタとして、
私達の総合武術活動でやっている体質からしたら「がん:Cancer」と呼ばれるものになんてなりようがない(いや、なれない)」という実証企画を、新聞記事からのデータを紹介しながら、レッスンで行っています(時間オーバーがあるので今週は気を遣っています・・)
(※ここでの内容の詳細データからの分析・解説を始め、話すと「もの凄く長く」なるので、実際にお会いできてお話し(質疑応答)できて、実践活動のある皆さんに、今週はお伝えしています)
そして、何故に私はそうと「言えるか」を証明したいには、私の体質や性格、そして自発的な生活環境維持を少年時代から本能的にしている事実に気付きました・・
この世に生を受けてから、6年と2ヶ月と10日ほどの頃から、両親から剣道と水泳の学習と稽古と特訓を受けるように、仕向けられ努力しました。
(つまりは、オギャーと逆子で医師から生まれながらの親不孝者と呼ばれながら誕生し、生まれてから6歳と2ヶ月までが意識的運動習慣のない時間でした)
小学校に上がる前から落ち着きはなく、常に動き続けることの好きな子供だったと思います。
そしてその後6年経ってから、剣道と水泳を辞められることになり、晴れて自由になりました。
その時は剣道では道場での大会は準決勝で敗れて4位、水泳は競技選手コースで行っていました。
その時の私の感覚は、嫌いであったのではなく、いまひとつ「自身の本能的ベストを活かせない」と直感で小学校5年生の11歳過ぎぐらいで男らしく「負けん気」意識が強く芽生えた頃から感じていたことでした。
ちょうどその頃から「やんちゃ坊主」「暴れん坊」というニックネームをもらうようになり、人によっては気に入られないようになり、そして同時に気に入ってくれる人も出てきて、その直感で「両方は共存できない」と感じるようになりました。
これは今でも同じですが「正しい」と私自身の感覚は思いますし、「正しくない」といわれれば「あっ、そうですか。とりあえずは、この場は済みません」で、その一件はお片づけです。
中学1年生になって「中国武術」の「道」へ転向しました、というよりはステップアップです。
2年前に自身の新しい剣道・剣術に復帰したので、これもまたステップアップだと思います。
水泳選手の道は頑張っても頑張っても、水が相手で魚じゃないのだし、魚のような人間と競い合っても、何かしらいつも最終的には息切れで疲れて孤独で寂しいし、
剣道は日本精神の素晴らしい礼節と礼儀作法を学べて、低学年の時にはよかったのだけれど、高学年になってから基本稽古が終わってから燃えてくると、実戦稽古までの待たされ時間が長くて、辟易していて、
血の気が上がりすぎて、当時の1975年以降からブルース・リーブームが起こったことがきっかけで「Gメン75」を経てから「カンフーブーム」が起こり、
毎日テレビでもカンフー映画が放映されていて、見よう見真似で技を覚えて、勝手に練習をしていて、剣道の稽古での待たされ時間を使って、同級生に技を仕掛けて試していました。
それを剣道の先生に見つかって大目玉をくらいました。
それから待ち時間に見られない場所でやるようになって、小学6年生の秋の頃に、それなりに我流でも結構できるようになっていて、プロレスも好きだったので、
道場横すぐの更衣室で、袴と防具をつけたままで、カンフー&プロレスの模擬試合を行っていました。
その頃は、どちらかといえば、剣道の基本稽古はウォームアップ、剣道の練習試合で、血の気が上がって、師範との打ち合い稽古の待ち時間は無視して、
同級生同士での異種格闘技戦もじりで勝手にやっていました。
当時はアントニオ猪木さんの「異種格闘技戦」がブームでした。
第1戦は師範との稽古を終えてから面をつけたままで竹刀を使わないで小手をつけたまま足技なしでボクシングっぽくやりました。
そして当分出番がそれからはないので、第2戦には面と小手を外して、今でいうフリースタイルでやりました。
私には兄がいて、兄も剣道、水泳コースで剣道は私より強く、至誠館道場での全道場生大会で優勝し、日本武道館の全国大会にも出場しました。
その兄と、このルールを考案し、毎日自宅の部屋と、公民館で練習していました。
竹刀剣道の試合稽古は対戦はしますが、基本的に面と小手と胴だけで衝撃はあるけれど「痛み」がないので、総合的な勝負事には向かないように感じていました。
ある日、隣町の学校から来ている道場生で道場内でも嫌がらせをかけてくる奴がいて、その「生理的にも受付けない奴」にからかわれ勝負を挑まれたので、そのルールでローキックから、右横水平チョップを食らわして、ローキックを食らわして、袴をまくり上げて首四の字固めをかけて、
「どうだ~っ!!」と思い切りかましていたら、
「こら~、成澤ぁ~!!」
ともの凄いでかい声で怒鳴られて、頭を竹刀で、何度か思い切り叩かれました。
そこで、私はそのまま道場の中に連れて行かれて皆の見える場所で、その日の稽古はさせられず正座をさせられて、見せしめにさせられました。
途中で、足がしびれて、崩したら、師範代に竹刀で頭を叩かれました。
その日の稽古が終わり、最期の終礼で「成澤は、こういう人間だから、師範たちからこういう目に合わされました」という教訓を皆の前で、行われました。
世間には、今現在にも変わらずにいろいろな様々な事象が日々に起こっています。
ある意味でスタートでもあったし、ある意味で終わりでもあった気がします。
深く思えば、思うほど、ここは自分の原点だったと思います。