今朝、今年初の梅の花が咲いていました。

何かしら、昨日~今日の夢心地がとても快い朝でした。
ふと、思い起こしたことに、伝統日本の剣術に夢想神伝流という流派があります。
これは剣聖とも称された中山博道先生が昭和初期に開かれた流派で、後に全日本剣道連盟居合いとなった剣術です。
私の長年において身につけることの出来た中国武術的思想、道家気功思想における養生理論の解釈の中で思ったことで、
「夢の中の想う内神に伝わった流儀」
とみていくと、とても素晴らしい名称と感銘を受けました。
私も時折、眠っている夢の中でありとあらゆる想いの融合で、感じたことで実際の現世を生きていく中でヒントを自身の内神に感じることがあります。
「内神」という言葉は日本語では聞き慣れない言葉ですが、古代中国での気功理論には「外気:普通の意味で使う外の空気」に対して、
「内気」という、心身の内面での総合的感覚で使う「気:心」の意味を持つ言葉があります。
気という概念は、「天気」の気で使う自然エネルギーとしての意味。
「空気」を幅広く捉え、呼吸での呼気、吸気の意識をも含む意味。
そして「気分」という言葉で使う「心のはたらき」として用いる意味の3つがあります。
同じように「外神」というもので大自然の偉大なるはたらきを差し、先ほどの「内気」に合わせて「内意」そして「内神」という感覚で謂う感覚があります。
すべての素晴らしい芸術(武芸を含みます)は人の持てる内神の成せる業ということができます。
時折、西洋人たちのいう天からの啓示という言葉については、東洋精神における外神と内神との連携のことを差すことに思うことがあります。
日本精神には聖徳太子の「和を以って貴しと為す」として、の「和」
「倭」「やまと」
大きな和、「大和」
その内神、内意の表れを「大和魂」と呼び、日本の世界に誇る独特な文化的感性だと思っています。
私は戦後24年後に この世に生を受け、今年は69年めに入り、来年は満70年。
今年は将来に向けた、何かとても大きな一つの節目の年になっていく予感を思っています。
政財界が慌しいのも、その日本国民全体の持てる「声にはならない内意」に合わせて動き出したというのを直感で感じています。
そして、それらは報道をコントロールしようと考える関係者たちには見えず、動かすことのできない「かたち:象」でもあると思います。
人間、長く武芸に生きていると、感性がそうした空気の集まりである風の流れには敏感になります。
ここ数年、自身の武芸の融合を図り、明治、大正、昭和、平成と、
何かしらこの混沌とし続けてやってきた現代日本社会を見続けてきて、
最近に、ようやく「観限った、見切った」と感じたことがあります。
戦後連合国軍GHQの画策があり、日本の完全欧米化がありました。
戦後国際社会でのリーダーシップとかいう言葉で使いますが、実は英国、米国、中華民国から受け継いだ中華人民共和国、ロシア帝政からソビエト連邦、そして現代ロシアの影響力に従って、
彼等の政治的な要求があって、そこから日本国政府は政財界を運営してきたことで、
彼等に外形は知ることが出来ても「大和魂」の内在意識は通じないし、存在を理解していないことに気付いたことでした。
今でも戦勝国という名目で強気でここまで来た欧州と米国は何故に正しさを言うのか、戦争をその後も起こしてきたけれども、ここ数年で世界経済を破綻させる原因を作りました。
そして中国の政権では、中華民国ではなくなり、ソ連もロシアに変わりました。
従って、現代日本社会において「したたか:強か」に生きるには、現代的な大和魂の応用でいくことが望ましいと気付きました。
後醍醐天皇の子息の宗良親王の歌。
「君がため 世のため 何か 惜しからむ すてて かひある 命なりせば」
「君のためにも、世のためにも、生きて甲斐ある命を捨てることについて、何をおいて、惜しいと思うか、いや惜しくなんかはない」
私は、これを逆説的に考え、こう到達しました。
この生きて甲斐ある命を、崇敬なる大和魂を持たれる君:主君やその素晴らしい世の中のために捨てることには、何のためらいがあろうか、いやない。
しかし、崇敬の持てない政財界の輩ごときにはこの尊い命を捨てることなどはできない、いや捨てるべきでは全くない。
生きて、生きて、乱れた世を立て直すために力強く生き抜き、世を乱す政財界の輩よりも遥かに長生きすべきなのだ。
そしてかつての大戦で命を捧げた皆さんに報いることなのだ。
と完全完結を致しました。
昭和天皇陛下 御製の歌 松上雪
「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」
松の木に降り積もった雪を見て思うに、この白い雪に、全く色を変えずにいて逞しく、雄雄しいその姿に日本人なら、そうあれ。
これはこの通りに生きるべきであり、
日本武尊 ヤマトタケルノミコト の歌。
「やまとは 国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる やまとしうるはし」
大和:やまとの国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。その山々に囲まれた大和は美しい。
つまりは、
国々の中で最も優れていなくて、青々とした緑も失われ、美しくもない土地や人々は大和:やまととはいえない。それらは大和:やまとではない、
大和:やまとでないものに日本人は尊ばなくても良い。
そうして自身を振り返ると、日本剣術を少年時に学び、後に中国武術全般、伝統気功、東洋思想哲学をも中国との往来で学び、身につけての現在にある西洋化した便利な現代日本社会を利用して、
新たなる日本の文化に私のすべてを融合し、この善良なる大和の日本の皆様への発展と繁栄に全力を尽くしたい、ここに自己完結致しました。
(※長長と綴り述べましたが、つまりは、大和文化がなく、尊さのないものには心遣い、気遣いはなしでOKという意味です。おもてなし旅館や料亭から捨てられる廃棄物のようなものに意識は不要ということです)

何かしら、昨日~今日の夢心地がとても快い朝でした。
ふと、思い起こしたことに、伝統日本の剣術に夢想神伝流という流派があります。
これは剣聖とも称された中山博道先生が昭和初期に開かれた流派で、後に全日本剣道連盟居合いとなった剣術です。
私の長年において身につけることの出来た中国武術的思想、道家気功思想における養生理論の解釈の中で思ったことで、
「夢の中の想う内神に伝わった流儀」
とみていくと、とても素晴らしい名称と感銘を受けました。
私も時折、眠っている夢の中でありとあらゆる想いの融合で、感じたことで実際の現世を生きていく中でヒントを自身の内神に感じることがあります。
「内神」という言葉は日本語では聞き慣れない言葉ですが、古代中国での気功理論には「外気:普通の意味で使う外の空気」に対して、
「内気」という、心身の内面での総合的感覚で使う「気:心」の意味を持つ言葉があります。
気という概念は、「天気」の気で使う自然エネルギーとしての意味。
「空気」を幅広く捉え、呼吸での呼気、吸気の意識をも含む意味。
そして「気分」という言葉で使う「心のはたらき」として用いる意味の3つがあります。
同じように「外神」というもので大自然の偉大なるはたらきを差し、先ほどの「内気」に合わせて「内意」そして「内神」という感覚で謂う感覚があります。
すべての素晴らしい芸術(武芸を含みます)は人の持てる内神の成せる業ということができます。
時折、西洋人たちのいう天からの啓示という言葉については、東洋精神における外神と内神との連携のことを差すことに思うことがあります。
日本精神には聖徳太子の「和を以って貴しと為す」として、の「和」
「倭」「やまと」
大きな和、「大和」
その内神、内意の表れを「大和魂」と呼び、日本の世界に誇る独特な文化的感性だと思っています。
私は戦後24年後に この世に生を受け、今年は69年めに入り、来年は満70年。
今年は将来に向けた、何かとても大きな一つの節目の年になっていく予感を思っています。
政財界が慌しいのも、その日本国民全体の持てる「声にはならない内意」に合わせて動き出したというのを直感で感じています。
そして、それらは報道をコントロールしようと考える関係者たちには見えず、動かすことのできない「かたち:象」でもあると思います。
人間、長く武芸に生きていると、感性がそうした空気の集まりである風の流れには敏感になります。
ここ数年、自身の武芸の融合を図り、明治、大正、昭和、平成と、
何かしらこの混沌とし続けてやってきた現代日本社会を見続けてきて、
最近に、ようやく「観限った、見切った」と感じたことがあります。
戦後連合国軍GHQの画策があり、日本の完全欧米化がありました。
戦後国際社会でのリーダーシップとかいう言葉で使いますが、実は英国、米国、中華民国から受け継いだ中華人民共和国、ロシア帝政からソビエト連邦、そして現代ロシアの影響力に従って、
彼等の政治的な要求があって、そこから日本国政府は政財界を運営してきたことで、
彼等に外形は知ることが出来ても「大和魂」の内在意識は通じないし、存在を理解していないことに気付いたことでした。
今でも戦勝国という名目で強気でここまで来た欧州と米国は何故に正しさを言うのか、戦争をその後も起こしてきたけれども、ここ数年で世界経済を破綻させる原因を作りました。
そして中国の政権では、中華民国ではなくなり、ソ連もロシアに変わりました。
従って、現代日本社会において「したたか:強か」に生きるには、現代的な大和魂の応用でいくことが望ましいと気付きました。
後醍醐天皇の子息の宗良親王の歌。
「君がため 世のため 何か 惜しからむ すてて かひある 命なりせば」
「君のためにも、世のためにも、生きて甲斐ある命を捨てることについて、何をおいて、惜しいと思うか、いや惜しくなんかはない」
私は、これを逆説的に考え、こう到達しました。
この生きて甲斐ある命を、崇敬なる大和魂を持たれる君:主君やその素晴らしい世の中のために捨てることには、何のためらいがあろうか、いやない。
しかし、崇敬の持てない政財界の輩ごときにはこの尊い命を捨てることなどはできない、いや捨てるべきでは全くない。
生きて、生きて、乱れた世を立て直すために力強く生き抜き、世を乱す政財界の輩よりも遥かに長生きすべきなのだ。
そしてかつての大戦で命を捧げた皆さんに報いることなのだ。
と完全完結を致しました。
昭和天皇陛下 御製の歌 松上雪
「ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」
松の木に降り積もった雪を見て思うに、この白い雪に、全く色を変えずにいて逞しく、雄雄しいその姿に日本人なら、そうあれ。
これはこの通りに生きるべきであり、
日本武尊 ヤマトタケルノミコト の歌。
「やまとは 国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる やまとしうるはし」
大和:やまとの国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。その山々に囲まれた大和は美しい。
つまりは、
国々の中で最も優れていなくて、青々とした緑も失われ、美しくもない土地や人々は大和:やまととはいえない。それらは大和:やまとではない、
大和:やまとでないものに日本人は尊ばなくても良い。
そうして自身を振り返ると、日本剣術を少年時に学び、後に中国武術全般、伝統気功、東洋思想哲学をも中国との往来で学び、身につけての現在にある西洋化した便利な現代日本社会を利用して、
新たなる日本の文化に私のすべてを融合し、この善良なる大和の日本の皆様への発展と繁栄に全力を尽くしたい、ここに自己完結致しました。
(※長長と綴り述べましたが、つまりは、大和文化がなく、尊さのないものには心遣い、気遣いはなしでOKという意味です。おもてなし旅館や料亭から捨てられる廃棄物のようなものに意識は不要ということです)