昨日の早朝の決定からずっと頭から「東京にオリンピックがやってくる」こればかりが寝て夢の中でも思っています。
私は東京の生まれ東京育ち。
狛江という小さな町で過ごし時代劇の好きな剣道少年でした、東京の多摩の近くには新撰組でも有名な高幡不動尊、高尾山、秋川渓谷が好きでした。
中学生になってから中国武術を始め都内の各地で練習をしました。
カンフー映画に夢中になり、いつもぴあという雑誌で上映作品を調べてはしょっちゅう新宿や池袋など時間を見つけては行きました。
そしてB級映画の2本立て、3本立てを見にいく為に三鷹、吉祥寺、中野、それから上野や新橋、大塚、足立区など、あやしい街中にある映画館に足を運びました。
高校生になってから日本武道館で学び、拠点はいつも千代田区、そして神保町、お茶の水。
予備校時代に板橋に住んで、太極拳協会の事務員のアルバイト兼来日されていた中国武術家の先生方の付き人をしていました。
毎日板橋と千駄ヶ谷を往来し、予備校のある新宿三丁目、晴れた日は自習室でなく新宿御苑の青空の下、芝生の上で勉強をして 身体がなまってきたら武術の練習をしたりしました。
板橋は高島平、近くは赤羽、巣鴨、荒川線にもよく乗りました。
東洋大学に合格し、校舎は文京区の白山、近くの東京大学界隈~無縁坂、不忍池~森鴎外旧居のある上野あたりをいつもぶらぶらしていました。
文京区は湯島神社、昌平坂学問所後の湯島聖堂から聖橋を渡った時に「聖」は孔子だったのか、とその地で悟った感動もありました。
当時は明治の近代文学を専攻し文学青年でもあったので明治文学の舞台であった上野、浅草界隈あたりをいつも主人公になぞらえながらよく歩いていました。
常磐線の松戸で降りて、バスに乗って矢切の渡しで江戸川を渡り、向こう側は有名な帝釈天。
寅さんの名セリフ「私の生まれは東京、葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎 人呼んでフーテンの寅と発します」
「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい。四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、意気な姉ちゃん立ちションベン、ねぇ、どう!?」
そんな言葉の数々を思い出しながら参道を歩き、近くの立ち飲みやに入ったりして柴又駅から電車に乗るのも好きでした。
協会が潰れ、失職してから板橋の一人暮らしをしている近くのガソリンスタンドで学業と武術と仕事の3つを同時に成り立たせていましたが生活に窮乏し、情けなく狛江の実家に戻りました。
それから狛江の実家は立ち退きに合い、府中へ引越しました。
大学を卒業し、仕事はしばらくホテルマンをしていました。職場は新宿、その後に千代田区紀尾井町。
赤坂の猥雑さや四谷の桜、もう変わってしまった上智大学の教会の鐘の音。
途中に大きくなり始めたフィットネス業界から声がかかり、知人が社長を務める会社で太極拳の指導と普及の仕事を始め、今日に至ります。
ちょうど14年前に今住む横浜の地へ指導に来ていて、通勤が面倒になったので引っ越しました。
東京で生まれ育ち、思えば東京23区内でありとあらゆるすべてを知った街でした。
東京23区、多摩から中央線沿線、京王線沿線、小田急線沿線。
大人になって武術活動や仕事になったレッスンであちこちへ行きました。
山の手線、中央線、常磐線、地下鉄都営新宿線、千代田線、丸の内線、銀座線、有楽町線。
たまに休みの時に渋谷から東京界隈の路線図を見ると大体どこでも思い出があります。
今思うのは、東京で生まれ、東京が好きで、東京で多くを知り、多くを知ったがゆえに、
政財界、日本国の首都・・・
やがて、1990年代に地下鉄サリン事件が起きて、バブル崩壊。
リストラという言葉が流行り、自分の得たい金銭やポジションだけを守るためには人を人とは思わない人たちが増え、
自殺者が3万人にも登り、やる気のない空気があちこちに広がり、若者たちの仕事がなくなり、父親の世代と就職を奪いあう。
そして2年前の大震災、変わらずに続く経済の低迷。
居住地は人も町も変ってしまった東京を離れ、かつての少年時代に過ごした町の面影のある横浜の地に今住んでいます。
私は2001年の北京五輪招致活動の一環での武術活動にもずっと携わってきました。
目指す武術のオリンピック項目化にもいくつかの国際大会など協力をしてきて、
リアルタイムで中国の大きな変貌を遂げた12年間を実際にずっと見てきました。
それが昨日の2020年五輪の招致活動の成功。
これから7年間。
政財界こぞって予算を使い、東京~関東全域。
そして東北、関西とオリンピックにおける経済効果が一層大きくなるでしょう。
私は自分のため、というよりは日本国民全体の財布が大きくなって、景気が良くなって希望と笑顔を取り戻せる。
そんな7年間になって欲しいと思います。
全世代、老若男女の日本人たちが大好きなオリンピックが東京にやってくる。
私は東京の生まれ東京育ち。
狛江という小さな町で過ごし時代劇の好きな剣道少年でした、東京の多摩の近くには新撰組でも有名な高幡不動尊、高尾山、秋川渓谷が好きでした。
中学生になってから中国武術を始め都内の各地で練習をしました。
カンフー映画に夢中になり、いつもぴあという雑誌で上映作品を調べてはしょっちゅう新宿や池袋など時間を見つけては行きました。
そしてB級映画の2本立て、3本立てを見にいく為に三鷹、吉祥寺、中野、それから上野や新橋、大塚、足立区など、あやしい街中にある映画館に足を運びました。
高校生になってから日本武道館で学び、拠点はいつも千代田区、そして神保町、お茶の水。
予備校時代に板橋に住んで、太極拳協会の事務員のアルバイト兼来日されていた中国武術家の先生方の付き人をしていました。
毎日板橋と千駄ヶ谷を往来し、予備校のある新宿三丁目、晴れた日は自習室でなく新宿御苑の青空の下、芝生の上で勉強をして 身体がなまってきたら武術の練習をしたりしました。
板橋は高島平、近くは赤羽、巣鴨、荒川線にもよく乗りました。
東洋大学に合格し、校舎は文京区の白山、近くの東京大学界隈~無縁坂、不忍池~森鴎外旧居のある上野あたりをいつもぶらぶらしていました。
文京区は湯島神社、昌平坂学問所後の湯島聖堂から聖橋を渡った時に「聖」は孔子だったのか、とその地で悟った感動もありました。
当時は明治の近代文学を専攻し文学青年でもあったので明治文学の舞台であった上野、浅草界隈あたりをいつも主人公になぞらえながらよく歩いていました。
常磐線の松戸で降りて、バスに乗って矢切の渡しで江戸川を渡り、向こう側は有名な帝釈天。
寅さんの名セリフ「私の生まれは東京、葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎 人呼んでフーテンの寅と発します」
「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい。四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、意気な姉ちゃん立ちションベン、ねぇ、どう!?」
そんな言葉の数々を思い出しながら参道を歩き、近くの立ち飲みやに入ったりして柴又駅から電車に乗るのも好きでした。
協会が潰れ、失職してから板橋の一人暮らしをしている近くのガソリンスタンドで学業と武術と仕事の3つを同時に成り立たせていましたが生活に窮乏し、情けなく狛江の実家に戻りました。
それから狛江の実家は立ち退きに合い、府中へ引越しました。
大学を卒業し、仕事はしばらくホテルマンをしていました。職場は新宿、その後に千代田区紀尾井町。
赤坂の猥雑さや四谷の桜、もう変わってしまった上智大学の教会の鐘の音。
途中に大きくなり始めたフィットネス業界から声がかかり、知人が社長を務める会社で太極拳の指導と普及の仕事を始め、今日に至ります。
ちょうど14年前に今住む横浜の地へ指導に来ていて、通勤が面倒になったので引っ越しました。
東京で生まれ育ち、思えば東京23区内でありとあらゆるすべてを知った街でした。
東京23区、多摩から中央線沿線、京王線沿線、小田急線沿線。
大人になって武術活動や仕事になったレッスンであちこちへ行きました。
山の手線、中央線、常磐線、地下鉄都営新宿線、千代田線、丸の内線、銀座線、有楽町線。
たまに休みの時に渋谷から東京界隈の路線図を見ると大体どこでも思い出があります。
今思うのは、東京で生まれ、東京が好きで、東京で多くを知り、多くを知ったがゆえに、
政財界、日本国の首都・・・
やがて、1990年代に地下鉄サリン事件が起きて、バブル崩壊。
リストラという言葉が流行り、自分の得たい金銭やポジションだけを守るためには人を人とは思わない人たちが増え、
自殺者が3万人にも登り、やる気のない空気があちこちに広がり、若者たちの仕事がなくなり、父親の世代と就職を奪いあう。
そして2年前の大震災、変わらずに続く経済の低迷。
居住地は人も町も変ってしまった東京を離れ、かつての少年時代に過ごした町の面影のある横浜の地に今住んでいます。
私は2001年の北京五輪招致活動の一環での武術活動にもずっと携わってきました。
目指す武術のオリンピック項目化にもいくつかの国際大会など協力をしてきて、
リアルタイムで中国の大きな変貌を遂げた12年間を実際にずっと見てきました。
それが昨日の2020年五輪の招致活動の成功。
これから7年間。
政財界こぞって予算を使い、東京~関東全域。
そして東北、関西とオリンピックにおける経済効果が一層大きくなるでしょう。
私は自分のため、というよりは日本国民全体の財布が大きくなって、景気が良くなって希望と笑顔を取り戻せる。
そんな7年間になって欲しいと思います。
全世代、老若男女の日本人たちが大好きなオリンピックが東京にやってくる。