「打:うつ」

「打て」「いけ」なんて表現でよくいわれるように、どんな武道でもスポーツでも必ずその感覚は知っていることと思います。

どの武術拳種において「拳や掌で打つ」そして短長器械でも基本の中で最も重要視しています。

私は指導の時には必ず先に実技を行ってからその技術動作での意味や理由を説明しています。

その時相手に「打」をしてもらいますが、その時でその人の拳や器械での「打」の性質が理解できます。

その中には、力が入り過ぎの「打」

逆に力が入っていない「打」

相手を見すぎて方向違いの「打」

様々あります。

受ける時の技は中段なら肘や腕を用いた「格打」

上段でなら「架打」

下段なら「截打」

技の突き受けを経て、そこから「打」を理解し、自身で練功していく礎ができていき武術精神が形成されていくものです。

拳を握り、あるいは掌での突き受けを経て、1回の「打」

そして10回、100回、1000回。

キャリアが長ければ長いほど、その人の「打」の特徴は顕著になります。


日本のありとあらゆる武道でもボクシングでも何にでも「打」は基本です。

しかしながら日本国内で普及している中国武術系項目では、その「打」をないがしろにしているのか、知らないのかは各々ですが、「打」とはなっていないものが見られます。

それを正当化して居直ってやってしまっているところがよくありますが、それについて今までに他の武道や素人からも指摘されていたことがありましたが、それは正しい指摘だと私も思います。


しかしながら最近感じるのは、戦後68年間の日本人の行いではこういうものだらけだったのを実感します。

「していない」ことを「している」といい、「できていない」ことを「できる」という。

「している人」を利用して「していない人」は楽をする。

「できる人」を利用して「できない人」は楽をする。

そういうことを繰り返し「していない人」と「できない人」たちはメリットを得て「している人」「できる人」たちはデメリットばかりを蒙る。

社会においてでは毎日朝昼晩これが普通に繰り返されてきて、今日でも同じところが続いています。

世の中の展望を思う時に、明るいより暗いと連想し、「やる気」を失ってしまう現代日本社会の現実。

しかしながら、これらを築いてしまったのは日本国民全員だと思うことが大事です。

私の若き頃も同じ状況でしたが、日々の努力でそうした流れからは離れて今日を有難く過ごしています。

その民の一人として、迎合することを止め、単独でも良き方向にと信じ努力することで「自身の将来」を築けることを実感しました。

これは突き受けの「打:うつ」基本の連続の積み重ねで出来上がるものだと確信しました。

私の経験でも良いものは伝えたい、そして今日の日本では良くないものは伝えたくない。

「打」のない武術は武術とはいえない、あるいはそうした武術を認めることはしたくない。

私ができる日本の悪化を止める一歩はここにあると思います。

それは、先ほどの世間一般の現代日本社会の風潮を善しとは思えない、そのことと一致しています。

時に世の中に立ち向かう精神、闘える能力はこの現代日本社会では大事だと思います。