最近の映画を見ると、いつしか自分はその映画でのそれぞれの立場に同情とか共感することはなく、どちらかといえば裁判官のような視点に立つようになりました。

(※しかし1970~1980年代での黒澤作品や時代劇などの日本映画には思い切り引き込まれます)

映画「グランド・マスター」ですが、「シーン」の中では、見ていて言いたくなることがありました。

例えば「日本人は思いやり文化、おすそ分け文化 だけれども、日本以外は普通 奪い合い文化や利用できるものこそ味方、と考える思考法なんだよな、そういえば現代日本社会の人もそういう人がかなり増えたな・・」

しかしこの映画にも反日的な「日本軍」が登場しますが、そもそも、

「ああいえば、こう言う」「こう言えば、ああ言ってくる」これらが現代日本社会ではあちこちで言われます。

「言論の自由」なら、個人個人それぞれの人の言論には「自由意識」が責任を持ってあれば、それはそれでひとつの意見であることに、即何かとそれを「悪」のような決め方はおかしいことに気付くと思います。

映画の中で「妓楼が出てきて武術家たちがたくさん出入りして、金銭を湯水のように使った」とか、「どちらが強いか」とか、個人的に「誰の言うことに従うか」とか出てきます。

形意門と八卦門は統合し、八卦掌は「狡猾な技である」と言い、形意門を教え、八卦を教えなかった、とその門派の師は言いました。

これらは日本人である、私個人的に全く「判らない」ことですし、そういうことはしません。

すべてが「主観的」である、というのはそれが理由です。

抗日戦争が始まったことが、すべての理由のように語りますが、

そもそも清王朝が自らの堕落が原因で退廃し、孫文が日本に来て日本人からの経済支援を得て広東に行きました。

インドのムガール帝国を滅ぼし、清王朝に入り込んできた英国はどうなのか、香港を割譲し、上海、南京、武漢、重慶など長江流域に商館を立て、

中華民国国民の利益を中国人商人が海外に流出させ、後にインドネシアを経てフランスやドイツが中国に入り込ませてしまった、ということはどうなのか。

北部からロシアが中国東北部に入り込んできて、いずれは日本に来る、その前に防衛線を張る、ということは、あのような時代不自然なことではない、ということ。

映画の中でも描かれているように中国人同士で奪い合い、中国内部で抗争を繰り返してきて、中国人同士でまとまることもできず、何かと話の展開の最期に日本が悪いと、すべての責任を押し付けてくるのは、どうなのか。

日本人においての愛国という意識では「同胞の国のすべての人を愛し、国土を愛すること」だと私は思っています。

ゆえに現代日本社会はたくさん問題があるけれども、日本を愛しています。問題を改善したいと考えています。これは「愛国心」があるからです。

私は個人的には中国が好きだし、中国の先生方にも恩があり、中国の良い面をたくさんたくさん知っています。

中国の皆さんの愛国精神も尊重したいと思っています。

しかし、この歴史認識観については伝統日本精神を重んじる一人としては、聞き捨てならない言葉がいくつかあります。

日本は江戸末期から明治初期に入ってでも、日本人同士が殺し合いました。

しかし日本人同士で協力し合って日本政府を立て47都道府県が一体となって近代化を成し得た国家です。

その頃の清朝の末期に孫文がやって来て、蒋介石は日本軍に入りました。

中華民国を建国してからも、内紛を繰り返してきました。映画ではその時期に武術界でも内紛を繰り返しています。

日本人の教育では、除かれていますが、日本は英国と米国に宣戦布告をしました。

中国では、中国人と戦ったというより、英国に味方する中国人と戦わざるを得なかった、ということです。

香港からスパイが大量に広東地域に潜んでいる、という理由でスパイが潜伏するのは妓楼のようなところなので広東の仏山には厳しくあたった、という軍事的理由とも言えると思います。

映画の中の結末での武術界にもいえることですが、非戦と不戦は違う、ということです。

戦うことは必ず遺恨を残す、であるから戦ってはならない。

しかし戦える状態は常に保っていなければならない、これが武訓でもあるはずです。


満州族の清王朝の時、仏教はチベット密教を尊び、少林寺は焼き払われました。

八卦、形意、楊氏太極、イスラムの八極、それに南派では広東の洪家、詠春が出てきます。

「武術家には四禁がある、それは僧、道士、女、子だ」というシーンがありました。

この4つは「平然と人を危めることに、躊躇を生むもの」であり、

僧は仏教、道士は道教、信仰は要らぬ、と彼等は言っていることです。


そして、あの映画の冒頭シーンの多くにはあの世界はほとんどがマフィア絡みだということに気付いた方はいらしゃったでしょうか。

私は清王朝時代に北京界隈に流行った武芸流派の抗争の逸話があまり好きではない理由がここにあります。


映画はひとつのプロバガンダです。

武術をしている人が、この映画を見て何を思うことも自己責任において自由かと思います。

しかし伝統日本精神を持つ日本人としてはどう見るか、そういうことも大事だと昨今よく思うのです。