映画「グランド・マスター」を鑑賞しました。王家衛監督の作品は「判るようで判らないもの」と「判らないようで判るもの」の両面を同時進行させながら映像化して描くにはすごい人だと思います。

中国武術界と付き合いの長い私の個人的感想では、先ず気質的な「中国人」的感性と「武術界」をかなりよく表されていると思います。

映画の中ではその展開される中で「主観」に「主観」を重ねに重ね続け、客観は後で何か、とを回想しては考えることの繰り返しです。

映画では「想法」と強調していることがポイントです。

武術でも「判っていないことを判ったように思ってしまう」ことや「判ることが判らなくなる」

高尚な格言の思い違いをその立場立場の中での「是か非か」を問い、問われ、

これらも国や組織でも、政での外交も歴史的な忌まわしい出来事に結びつくすべての誤算に繋がっていくことを思います。

世には具体性を避けることが如何に難しく、しかし具体性を省くことで響き合う情感もあるでしょう。

これは、どこの国のこととかではなく、どの国であってでも、と同じということでしょう。

そして映画の中のシーンに「武術家には四禁があり、それは僧と道士と女と子だ」と出てきましたが、自分自身が道士のような道を進んだことに自身で何か可笑しくなりました。

私は武芸者としての生き方を選んでいますが、武術の「術」には溺れません。

長いキャリアの中で私自身で思うと、おそらく死ぬ前の日まで大事にするだろうと思うのは導引と五禽戯と兵法剣術だと思います。

中国武術の特徴として「健身武術」「競技武術」「実用武術」の3つがバランスよく配合されている世界のものを善し、と考える世界観があります。

実用武術界で、映画に描かれていたようなことは、私が知っていることの中でも、今までにずっと実際にあったことですし、またこれからもそういったことは続いていくことになると思います。

ですから武術教養の高いとは思えない方がよく口に出す「最強論」に乗せられるとこういう展開になるだけです。

しかし武術として闘技のないものは「武術」と呼べず、形だけでひとりよがりな満足を求めるだけのものも「武術」とはいえないのです。

その難しさ、複雑さが中国武術界でもあり、しかしそれらも人々を惹き付ける理由でもあります。

興味深く思ったのはラストシーンに出てきた少年時代の葉問の先生:陳華順を演じていたのが「袁和平」だったことです。