我々、横浜武術院は中国武術研究院として2001年4月に発足致しました。
その前身は横浜市港北区にあったスポーツクラブ内でのカンフースクールというかたち(日本国内では「学校」という表記をすることは法律的に定められています)でスタートしました。
ここはその運営会社の副社長さんと懇意で、私の目指している目標の武術学校をクラブ内で自由にやらせてくれました。
広い体育室を持っていたので、スタートはパッとしなかったのですが、頑張って営業活動をして、なかなか「いい感じ」になりました。
しかし2001年の2月にいきなりに前触れなく運営会社が倒産しました。
こういう経験も人生には大事だと実感しました。
仕方なく、練習活動日だった日をなんとか、探しに探して練習場をなんとか確保しました。
そこで週3回に確保できた練習場で「中国武術研究院」「横浜武術院」としました。
何故に「中国武術研究院」か、とよく聞かれます。
本場中国で、1990年に北京で「アジア競技大会」が開かれ、中国武術はその正式種目になりました。
中国は自国の項目を「オリンピック項目化したい」という願いがあり、このアジア大会から国際スポーツ競技化を目指すようになりました。
そこで本部は北京で「中国武術研究院」が創設され、中国武術運動をありとあらゆる角度から研究し、如何に普及しやすく、如何に中国武術の本質を失わずに、
時代、時勢に合わせて「標準化」をしていくか、を実践、研究、発展のためのアレンジを行う機関でした。
この中国武術協会、中国武術研究院の職員に私がとてもお世話になった安徽省武術隊出身の大先輩がいて、いろいろと直接アドバイスを頂くようになりました。
この関係から、私は日本国内においての「国内事情」を研究し、
「国際武術事情」を研究し、「中国国内事情」を更に研究し、
善いところをどんどんと取り入れ、日本的に向かないものには工夫をして改正してきました。
ここまで来るには、苦労の連続でした。
何故、協力者はほとんどなく、協力企業も「収益性」がなければ、すぐ様にと撤退していく現実がありました。
しかし、ここへ来て、「チャンスの年」になりました。
実は、これは3年越しの2010年からの計画です。
今年は、4ヵ月後の秋分の日が中国武術・健身気功交流会を開催することになりました。
きっと、大きなサプライズができる年になりそうです。
「乞うご期待!!」
何卒、よろしくお願い致します。
その前身は横浜市港北区にあったスポーツクラブ内でのカンフースクールというかたち(日本国内では「学校」という表記をすることは法律的に定められています)でスタートしました。
ここはその運営会社の副社長さんと懇意で、私の目指している目標の武術学校をクラブ内で自由にやらせてくれました。
広い体育室を持っていたので、スタートはパッとしなかったのですが、頑張って営業活動をして、なかなか「いい感じ」になりました。
しかし2001年の2月にいきなりに前触れなく運営会社が倒産しました。
こういう経験も人生には大事だと実感しました。
仕方なく、練習活動日だった日をなんとか、探しに探して練習場をなんとか確保しました。
そこで週3回に確保できた練習場で「中国武術研究院」「横浜武術院」としました。
何故に「中国武術研究院」か、とよく聞かれます。
本場中国で、1990年に北京で「アジア競技大会」が開かれ、中国武術はその正式種目になりました。
中国は自国の項目を「オリンピック項目化したい」という願いがあり、このアジア大会から国際スポーツ競技化を目指すようになりました。
そこで本部は北京で「中国武術研究院」が創設され、中国武術運動をありとあらゆる角度から研究し、如何に普及しやすく、如何に中国武術の本質を失わずに、
時代、時勢に合わせて「標準化」をしていくか、を実践、研究、発展のためのアレンジを行う機関でした。
この中国武術協会、中国武術研究院の職員に私がとてもお世話になった安徽省武術隊出身の大先輩がいて、いろいろと直接アドバイスを頂くようになりました。
この関係から、私は日本国内においての「国内事情」を研究し、
「国際武術事情」を研究し、「中国国内事情」を更に研究し、
善いところをどんどんと取り入れ、日本的に向かないものには工夫をして改正してきました。
ここまで来るには、苦労の連続でした。
何故、協力者はほとんどなく、協力企業も「収益性」がなければ、すぐ様にと撤退していく現実がありました。
しかし、ここへ来て、「チャンスの年」になりました。
実は、これは3年越しの2010年からの計画です。
今年は、4ヵ月後の秋分の日が中国武術・健身気功交流会を開催することになりました。
きっと、大きなサプライズができる年になりそうです。
「乞うご期待!!」
何卒、よろしくお願い致します。