武術生活も長くなると、日本国内で多くの方々と接すると話の中で大体「ああ、この人は○○さんの影響を受けているな」ということがすぐにピンと来ます。
私は武術界に入って2年目の中学2年生の時に北京から短期間来日されていた先生の指導を受け、高校生になった4年目から長期間来日されていた、
杜進先生に師事し、2度来日されていた師爺の徐文忠先生の日本での付き人をもしていました。
そして徐先生のお嬢様の徐淑貞先生、武術名家の何福生先生にも学びました。訪中してでは1985年の上海体育学院では邱丕相先生、1986年1989年安徽省武術隊では楊承冰先生に学びました。(楊先生は1986年秋1987年には半年ほど来日され日本では一緒に生活を共にしていました)
1990年に湖北省武術隊で袁林林先生に訓練を受けました。
1990年代から北京でも数回訓練を受けました。
振り返ると10代には杜進先生に多くを学び、徐文忠先生からは対打拳や器械対打を同時に進行する伝統的な武術を学んでいました。
高校を卒業して大学時代から20代後半までは日本において体育大学の武術隊とできるだけ近いライフワークを構築した生活をしていました。
2000年に一度競技選手を辞め、コーチ業を務めるようになりましたが、武術コーチとして最も影響を受けていたのは楊承冰先生と上海体育学院の競技体育学校の武術隊を指揮していた監督兼コーチの楊中平先生です。
30代からフィットネス業が本職になり、その仕事での遠征として2002年から2006年まで毎年2回ほどのペースで上海体育学院へ行き、邱丕相先生が総編した馬王堆導引術の原型44式や健身気功五禽戯を勉強し、同時に空いている時間はいつも武術館で楊中平先生の横に座らせてもらい、楊先生の指導方法や考え方を教わりました。ちょうどその時の生徒でエースだったのが今は復旦大学の武術隊で教師をしている韋剣くんでした。
楊中平先生もかつて安徽省武術隊へ出稽古に赴き、楊承冰先生に指導を受け「自分も大きな影響を受けている」と仰っていました。
2001年と2003年に米国へ胡堅強先生を訪ね武術を学び、少林武術中心での胡先生の活躍を拝見し、とても感銘を受けました。しかし胡先生はまた存在そのものが別格で、驚きました。
2002年は同時に安徽省武術隊の先輩で兄弟子と慕っている賈平さんと再会できたことも良かったです。
賈平さんは現在、合肥市体育館の一階に風雲武道場という武道場の館長を務め中国空手協会の幹部になっています。
(3階は徐淑貞先生の武術館になっています)
そして実は賈平さんからいち早く日本人で五禽戯を学び研究していた私を同じ安徽省にある伝統華侘五禽戯の故郷亳州を紹介して頂き、伝統気功五禽戯をその当時の亳州伝統華侘五禽戯倶楽部にて薫文換先生、周金鐘先生、修海燕先生から実技と指導方法、古典医学理論を直接に教わることができました。
2010年の8月には国際大会で安徽省武術隊で訓練を受けた時に同じ年で仲の良かった栄軍くんと再会し彼はスイスで武術学校を開き、その成果発表で大会にいつも教え子たちを連れて来ていることを教えてくれました。
2年前の2011年の5月には同じく同じ年で安徽省武術隊の範燕美さんが今現在上海体育学院武術学院の副教授になっていて、同じく安徽省武術隊出身の戴有祥さんに武術訓練と木蘭拳の指導を受けました。
2011年はお二人から現在進行中の中国武術協会、上海体育学院武術協会での普及計画プロジェクトの内容を実は教えてもらっていました。それを今現在の活動にも活かしています。
武術界は人と人の縁が最も重要なことを10代でもう感覚的に理解していたことが今までの武術人生に役立っていました。
こうして振り返ってみるとやはり私は、人材を抜擢し、おもいやりあってやさしい杜進先生の存在、徐文忠先生、何福生先生、徐淑貞先生、胡堅強先生から伝統武術家として、
楊承冰先生、楊中平先生には競技武術の教練として、
周金鐘先生、修海燕先生には民間気功運動の活動の指導者としてのお手本となりました。
多分、今でも続く現代日本社会での特に都会におけるドライで冷たい人間関係に辟易していて、自分のキャラクターを外国人で日本人でもある私に、中国の生徒と同じようにいつも親身で接して可愛がって下さったことを今から思い出す度にとても有難く思っています。
昨年も上海の大会で安徽省武術隊出身の陸松庭くんや範さんにも再会し、いろいろと現在進行中でやっていることなどを聞かせてもらい、今年からの活動に活かしています。
今目指している武術学校のモデルというのは実はいろいろな意味で思い入れも縁も深い上海体育学院武術学院の日本版です。
日本ではまだまだ正式な中国武術スタイルが知られていません(そろそろYoutubeなどで気付いている人は多くなってきているのは良いことです)
しかしまた一つの意味では発展の可能性もあるということでもあります。
あまり規模は大きくなくとも何をやるべきか、は見えているので現代日本で如何に工夫していくか、これも大きな遣り甲斐になっています。
失われた20年なんて世間はよく言っていますが、私は個人的にですが得続けた30年でした。
人生って不思議なものです・・
私は武術界に入って2年目の中学2年生の時に北京から短期間来日されていた先生の指導を受け、高校生になった4年目から長期間来日されていた、
杜進先生に師事し、2度来日されていた師爺の徐文忠先生の日本での付き人をもしていました。
そして徐先生のお嬢様の徐淑貞先生、武術名家の何福生先生にも学びました。訪中してでは1985年の上海体育学院では邱丕相先生、1986年1989年安徽省武術隊では楊承冰先生に学びました。(楊先生は1986年秋1987年には半年ほど来日され日本では一緒に生活を共にしていました)
1990年に湖北省武術隊で袁林林先生に訓練を受けました。
1990年代から北京でも数回訓練を受けました。
振り返ると10代には杜進先生に多くを学び、徐文忠先生からは対打拳や器械対打を同時に進行する伝統的な武術を学んでいました。
高校を卒業して大学時代から20代後半までは日本において体育大学の武術隊とできるだけ近いライフワークを構築した生活をしていました。
2000年に一度競技選手を辞め、コーチ業を務めるようになりましたが、武術コーチとして最も影響を受けていたのは楊承冰先生と上海体育学院の競技体育学校の武術隊を指揮していた監督兼コーチの楊中平先生です。
30代からフィットネス業が本職になり、その仕事での遠征として2002年から2006年まで毎年2回ほどのペースで上海体育学院へ行き、邱丕相先生が総編した馬王堆導引術の原型44式や健身気功五禽戯を勉強し、同時に空いている時間はいつも武術館で楊中平先生の横に座らせてもらい、楊先生の指導方法や考え方を教わりました。ちょうどその時の生徒でエースだったのが今は復旦大学の武術隊で教師をしている韋剣くんでした。
楊中平先生もかつて安徽省武術隊へ出稽古に赴き、楊承冰先生に指導を受け「自分も大きな影響を受けている」と仰っていました。
2001年と2003年に米国へ胡堅強先生を訪ね武術を学び、少林武術中心での胡先生の活躍を拝見し、とても感銘を受けました。しかし胡先生はまた存在そのものが別格で、驚きました。
2002年は同時に安徽省武術隊の先輩で兄弟子と慕っている賈平さんと再会できたことも良かったです。
賈平さんは現在、合肥市体育館の一階に風雲武道場という武道場の館長を務め中国空手協会の幹部になっています。
(3階は徐淑貞先生の武術館になっています)
そして実は賈平さんからいち早く日本人で五禽戯を学び研究していた私を同じ安徽省にある伝統華侘五禽戯の故郷亳州を紹介して頂き、伝統気功五禽戯をその当時の亳州伝統華侘五禽戯倶楽部にて薫文換先生、周金鐘先生、修海燕先生から実技と指導方法、古典医学理論を直接に教わることができました。
2010年の8月には国際大会で安徽省武術隊で訓練を受けた時に同じ年で仲の良かった栄軍くんと再会し彼はスイスで武術学校を開き、その成果発表で大会にいつも教え子たちを連れて来ていることを教えてくれました。
2年前の2011年の5月には同じく同じ年で安徽省武術隊の範燕美さんが今現在上海体育学院武術学院の副教授になっていて、同じく安徽省武術隊出身の戴有祥さんに武術訓練と木蘭拳の指導を受けました。
2011年はお二人から現在進行中の中国武術協会、上海体育学院武術協会での普及計画プロジェクトの内容を実は教えてもらっていました。それを今現在の活動にも活かしています。
武術界は人と人の縁が最も重要なことを10代でもう感覚的に理解していたことが今までの武術人生に役立っていました。
こうして振り返ってみるとやはり私は、人材を抜擢し、おもいやりあってやさしい杜進先生の存在、徐文忠先生、何福生先生、徐淑貞先生、胡堅強先生から伝統武術家として、
楊承冰先生、楊中平先生には競技武術の教練として、
周金鐘先生、修海燕先生には民間気功運動の活動の指導者としてのお手本となりました。
多分、今でも続く現代日本社会での特に都会におけるドライで冷たい人間関係に辟易していて、自分のキャラクターを外国人で日本人でもある私に、中国の生徒と同じようにいつも親身で接して可愛がって下さったことを今から思い出す度にとても有難く思っています。
昨年も上海の大会で安徽省武術隊出身の陸松庭くんや範さんにも再会し、いろいろと現在進行中でやっていることなどを聞かせてもらい、今年からの活動に活かしています。
今目指している武術学校のモデルというのは実はいろいろな意味で思い入れも縁も深い上海体育学院武術学院の日本版です。
日本ではまだまだ正式な中国武術スタイルが知られていません(そろそろYoutubeなどで気付いている人は多くなってきているのは良いことです)
しかしまた一つの意味では発展の可能性もあるということでもあります。
あまり規模は大きくなくとも何をやるべきか、は見えているので現代日本で如何に工夫していくか、これも大きな遣り甲斐になっています。
失われた20年なんて世間はよく言っていますが、私は個人的にですが得続けた30年でした。
人生って不思議なものです・・