
今日は一日休みで、昨年秋に母校の東洋大学、哲学館創始者の井上円了の作った哲学堂公園を訪れ、それから今現在は東洋大学に井上円了記念館が出来ているのを知り、それを拝見しに20年ぶりに文京区白山を訪れました。
気づいたのは京北学園がなくなっていて、すべて新しい近代的な校舎になっていました。
そして校内のキャンパスを少し歩き、随分と現代的になったな、と感慨深く歩きました。
記念館には創始にあたった井上円了の生い立ちや考え方、そして生涯の仕事などが多くの展示物で紹介されていました。
今ここへ来てはっきり判ったのは自分はこの井上円了がやってきた教育事業に強く影響を受けていたことに改めて気づきました。
確かに東洋大学は自分の通った当時で一番学費が安くて、内容が充実していたからこそ進学したのでした。
そして大学には1990年当時に国内の武術の大会で本当にすべてをかけて頑張ってきたのに結果が不振で悔しくてその年の秋に学校を2ヶ月ほど勝手に休んで中国へ行き、北京体育学院、湖北省武術隊、上海体育学院と回り言わば武者修行に行きました。
この時にはもう自分は当時の武術隊の一軍レベルにはまだ環境的違いやキャリアから来る身体素質力においてもう少し届かないかな、という感じでしたが2軍には追いついていてかなり自信をつけた短期留学でした。
その結果、多くの単位を落とし2年間の留年をするはめになりました・・
しかしながら、自分はその6年間を大いに活かし、学問においてとても力を入れて学ぶことが出来て今の教養の機軸を作ることができたのです。
中国語は独学の感覚も活きてきて最初の2年でいいかたちでほとんど基本の発音をマスターしたので普通会話はこの時点からもうできるようになりました。
先生が中国人で大学入学した時点でもう2回の短期留学経験のある自分をとても可愛がってくれてかなり上達出来ました。
そして専門は近代日本文学です。予備校時代にいい先生に出会えたおかげで勉学に目覚め、森鴎外、夏目漱石、武者小路実篤、芥川龍之介などに思想的に大きな影響を受け専攻しました。
そして一般教養でも世界史、政治学、経済学、宗教学、心理学、日本思想、漢文、中国、インドなど東洋思想総合、などの哲学を学びました。
そして総合科目という項目でマスメディア研究、というものがあり、それが今日でもその学んだ教養が大いに生きています。
しかしながらこの時期に自分が嫌だったのは学校には学位、単位取得が目的なだけで勉強はせず、アルバイト経験もなく、経済的には親のすねかじりでやってきていて学校に来ては毎日だらだら遊んでいるような学生たちでした。
そんな人間ばかりだったので武術をやりながら自分で学費を稼いで苦学をする自分は彼らの存在は許せなくて、途中で彼らとは絶交し口を利くのも止めました。
しかしお陰で代返とかノートを貸すとかも頼まれなかったので、勉学に打ち込めたので良い選択だと我ながら思いました。
しかし当時の大学の方針で「単位取得」は難しい項目がかなり多く、先輩が売ってくる昨年の試験問題と回答のコピーとかで内容を知らないと試験で合格点を取れないものもありました。
私はすべて自力で勉強し単位を取得したので、いい勉強の機会になったと本当に思います。
そんなことを母校の校内を歩きながら回想しました、そして帰り道に白山神社へお参りしました。
それからは次の目的地「東京大学」へ向かいました。

東大は当時よく読み返し考えた、夏目漱石の「三四郎」森鴎外の「青年」「雁」に影響を受け、その舞台である本郷の辺りから、無縁坂のある池之端、不忍池、精養軒へとよく歩き考えながら散歩をしました。
養生の世界へ深く入り、山歩きをするようになったのもこの延長にあると思います。
今日は意外なことに、この白山の東洋大学から本郷の東京大学へ向かう途中ふと左側に「堀江米店」の看板を見つけ、「おお、これはかつて一緒に練習した武術の友人で共に一時期は東京都武術太極拳連盟の評議員をしていた人の実家ではないか!」と気づきました。
そのまま素通りするのも何だな、と思って店の奥を除くと当の本人様が出てきて「おお!」と共に驚き再会しました。
そうして、少しの間立ち話をして、お暇をしました。
それぞれにそれぞれの時間が流れているのだな、とも実感しました。
そして東大に着きましたが、東大はそんなに大きな東洋大の変化はなく、相変わらずの雰囲気が残っていました。
それから今回の目的地は東京大学医学部、医学部付属病院と関連施設の健康と医学の博物館の見学でした。
これを訪れた理由は自分がフィットネス事業の仕事に携わってから、ある会社の理学療法士のディレクターから協力を求められ一緒に医療界で仕事をするきっかけになったことです。
それはある有名な心臓病の権威で知られる病院で心臓病から回復した患者さんのリハビリテーションにおける運動指導を依頼されていてエアロビックダンスエクササイズでは今ひとつ効果が上がらなかったので、私の太極拳と気功でやってみて欲しい、というものでした。
私はその頃からかなり自信がついてきたので快く引き受けました。
やってみていて判ったことは、ハード面でいうホテルのようにきれいな建物で入院施設や医療機器すべては充実していましたが、そのソフト面はかなり不足している現状を知ることができました。
しかしそれは多くのフィットネス事業とも一緒でした。
私はこの辺りでこの現代日本社会の問題点の本丸に気づくことがありました。
今日は今までに調べてきていた事象の確認をしたいために、東京大学医学部、医学部付属病院、健康と医学の博物館を訪問しました。
「健康と医学の博物館」ではいい発見がありました。ここには東大医学部の歴史的沿革が堂々と紹介されていました。
やはり印象的なのは戦前と戦後は異なり、戦後はロックフェラー研究所(現ロックフェラー大学)の専門分野での、
「DNAが遺伝情報を伝える物質であることや、血液型の存在、ウイルスが癌を引き起こすこと、抗体の構造、ヘロイン中毒患者へのメタドンの処方、エイズのカクテル療法、体重を制御するホルモンであるレプチンなどは、この大学で発見された」というようなことを受けてから、
ロックフェラー財団から寄付を得たり、相互提携を行っている、という事実を確認できました。
そして館内には誇らしく、
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)の紹介がありました。
1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。
彼は人工癌の研究以前に胃癌の発生、および肝臓細胞癌についての研究を行っていた。そこで彼は「環境がガン細胞を作る」と言い、特定の癌化する細胞があるのではないと述べている。
当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していた。山極は煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始する。
その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗擦(塗布ではない)し続けるという地道なもので、山極は、助手の市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年にはついに人工癌の発生に成功する。
東大は戦後、日本におけるがんと脳卒中やパーキンソンなど病の研究と治療の最先端をやってきていました。
そしてその病の原因を実験によって着き止め「鼠:マウス」などを使って人工的に病を起こさせ、その病の治療研究をしてきました。
そして同時に医療ビジネス界を作り上げたこと、政財界を結びつけてノーベル賞など、この業界を盛り上げてきたことが堂々と紹介していました。
私は予防医学で伝統中国医学的立場から研究してきて、途中現代日本社会での医療との違和感を思いましたが今日でその事実確認を持ってその違和感は解消されました。
或る意味「そうか・・」それだけの感想でした。

そして、それから昨年2012年11月に開館した文京区の森鴎外記念館を訪れました。
森鴎外は東大医学部卒業で優れた医師であり、日清戦争、日露戦争における軍医を務め、素晴らしい文学者;文士でありました。
私の青年時代は森鴎外の著した「青年」「雁」
夏目漱石の著した「三四郎」「虞美人草」「草枕」
そのものを想い、当時に悩み考え、自身の道を模索していました。
今日一日、短いようで長い一日でした。
思い起こせば、この10数年・・
「自分の思考のルーツ」が判った一日でした・・不思議な因果です。