武という言葉の真の意味を知っている人はそう多くないと思います。
武という文字は真ん中の「止:止める」という言葉と「戈:か」という武器の名から合わせてできた言葉です。
「戈:か」という武器はあまり馴染みがないですが「矛:ほこ」よりも歴史が深く、ちょうど農機具の鍬を思い出してもらって、その刃が木に対して横ではなく、縦になってできています。
(あるいは「鉈:なた」が長い棒の先端についているようなものと考えてもいいでしょう)
軍勢はそれらを兵士が持ち、大勢が横並びになり、上や横から打ってきます。そして真ん中は「矛:ほこ」が狙って突いてきます。
そして軍隊はどんどんとそのまま領内へと進軍して来るのです。
如何にその「戈」を止めるか、という概念を「武」といいます。
真の武術では話し合いで平和に止められれば理想ですが、世の現実には実際に攻撃をしかけてくることは今までの知っている歴史から見ればたくさんあったことが想像できると思います。
我々の日本的武術活動には、4分類の活動を行っています。
それは、
「養生:生命力に関している身体機能を大いに養う活動」
「健身:筋骨をより丈夫にしていく健康増進活動」
「武術:武術の技芸練習」
「武道:闘技として行える実践」
という総合的武芸として個人個人の判断で、それぞれに向いた活動を行っています。
私自身の経験で、リーダーシップを執れる者、あるいは武芸者としての規範になっていける人には必ず「武道:闘技として行える実践」を身に着けてもらうようにしています
しかし武術であるので、一応長く練習している人には経験はしてもらうようにしています。
戦闘的な実践は人によって嫌がる、あるいは避ける人はありますが、経験をすることで間合いを図ること、姿勢、視線、反射・反応を感じてもらっています。
何故なら、その「怖れ」の中で始まり、そこから守衛、己にも打ち克つことからどんな難儀でも乗り越えるのが武芸の本質でもあるからです。
これをイメージだけで持っている人は現代社会には多いようですが、それは映画やテレビ番組、漫画をも含む書籍、ゲームなどの娯楽から関心を持つようになった人もいますが、
(娯楽はある意味イメージを感じる役割を果たすことがありますが、必要以上にそういった空想社会ばかりに耽り過ぎてしまう習慣になると、この世界でもよくある仮想現実から出られなくなる人も多いようです)
それらで描かれる世界とは質がまったく異なることを知って欲しいことです。
これらの修練には、痛みや辛さをも伴うもの、大怪我につながることの配慮、集中力、正確な攻防技能が要求されるからです。
それらは必要ないことを願って、修練を続け、場合によっては武芸者だからこそ耐え忍び、痛い思いをしても我慢する世界でもあります。
しかし、これらを身につけることで優しく許せる大きな心と時に相手にダメージを与えられる非情な武技を発揮できることからくる強みを自身に感じられるようになります。
これらは矛盾してはいず、むしろ矛と盾を時間空間や場所を変えて使いこなす能力だと思います。
私自身の今までの現代日本社会での経験からみて、武道としての修練を積んだ方で卑怯な人は一人も会ったことはありませんでした。
人柄はとても謙虚でユーモアがあり、武技には敬意を感じる技能を持っている方が多い印象があります。
逆に武術をまったくやらない人、あるいは中途半端な武術をしている人の中では「どうせ相手は何もしてこないだろう」というような思いで「卑怯」や「姑息」「嫌悪感を与え続ける行為:イジメ」そして「無責任」を簡単に行う人が多い気がしました。
つまりは現代日本社会では「武」という高尚な東洋教養の世界から学ぶことのなかった人たちは卑屈な生き方でも簡単に選ぶようになったと思います。
それに世間には格闘技スポーツがいくつかありますが「武道的」ではないものもかなり多く、人々は混同していることがありますがしっかりと分けた考え方も大事です。
さらに「侍:サムライ」という言葉もよく使われますが、侍というだけは「さぶらう:彷徨う使われ人」という下級武士のこともさすので、
我々は戦国時代に多く現れた武将のような素晴らしい日本の武人を目指すように考えています。
武という文字は真ん中の「止:止める」という言葉と「戈:か」という武器の名から合わせてできた言葉です。
「戈:か」という武器はあまり馴染みがないですが「矛:ほこ」よりも歴史が深く、ちょうど農機具の鍬を思い出してもらって、その刃が木に対して横ではなく、縦になってできています。
(あるいは「鉈:なた」が長い棒の先端についているようなものと考えてもいいでしょう)
軍勢はそれらを兵士が持ち、大勢が横並びになり、上や横から打ってきます。そして真ん中は「矛:ほこ」が狙って突いてきます。
そして軍隊はどんどんとそのまま領内へと進軍して来るのです。
如何にその「戈」を止めるか、という概念を「武」といいます。
真の武術では話し合いで平和に止められれば理想ですが、世の現実には実際に攻撃をしかけてくることは今までの知っている歴史から見ればたくさんあったことが想像できると思います。
我々の日本的武術活動には、4分類の活動を行っています。
それは、
「養生:生命力に関している身体機能を大いに養う活動」
「健身:筋骨をより丈夫にしていく健康増進活動」
「武術:武術の技芸練習」
「武道:闘技として行える実践」
という総合的武芸として個人個人の判断で、それぞれに向いた活動を行っています。
私自身の経験で、リーダーシップを執れる者、あるいは武芸者としての規範になっていける人には必ず「武道:闘技として行える実践」を身に着けてもらうようにしています
しかし武術であるので、一応長く練習している人には経験はしてもらうようにしています。
戦闘的な実践は人によって嫌がる、あるいは避ける人はありますが、経験をすることで間合いを図ること、姿勢、視線、反射・反応を感じてもらっています。
何故なら、その「怖れ」の中で始まり、そこから守衛、己にも打ち克つことからどんな難儀でも乗り越えるのが武芸の本質でもあるからです。
これをイメージだけで持っている人は現代社会には多いようですが、それは映画やテレビ番組、漫画をも含む書籍、ゲームなどの娯楽から関心を持つようになった人もいますが、
(娯楽はある意味イメージを感じる役割を果たすことがありますが、必要以上にそういった空想社会ばかりに耽り過ぎてしまう習慣になると、この世界でもよくある仮想現実から出られなくなる人も多いようです)
それらで描かれる世界とは質がまったく異なることを知って欲しいことです。
これらの修練には、痛みや辛さをも伴うもの、大怪我につながることの配慮、集中力、正確な攻防技能が要求されるからです。
それらは必要ないことを願って、修練を続け、場合によっては武芸者だからこそ耐え忍び、痛い思いをしても我慢する世界でもあります。
しかし、これらを身につけることで優しく許せる大きな心と時に相手にダメージを与えられる非情な武技を発揮できることからくる強みを自身に感じられるようになります。
これらは矛盾してはいず、むしろ矛と盾を時間空間や場所を変えて使いこなす能力だと思います。
私自身の今までの現代日本社会での経験からみて、武道としての修練を積んだ方で卑怯な人は一人も会ったことはありませんでした。
人柄はとても謙虚でユーモアがあり、武技には敬意を感じる技能を持っている方が多い印象があります。
逆に武術をまったくやらない人、あるいは中途半端な武術をしている人の中では「どうせ相手は何もしてこないだろう」というような思いで「卑怯」や「姑息」「嫌悪感を与え続ける行為:イジメ」そして「無責任」を簡単に行う人が多い気がしました。
つまりは現代日本社会では「武」という高尚な東洋教養の世界から学ぶことのなかった人たちは卑屈な生き方でも簡単に選ぶようになったと思います。
それに世間には格闘技スポーツがいくつかありますが「武道的」ではないものもかなり多く、人々は混同していることがありますがしっかりと分けた考え方も大事です。
さらに「侍:サムライ」という言葉もよく使われますが、侍というだけは「さぶらう:彷徨う使われ人」という下級武士のこともさすので、
我々は戦国時代に多く現れた武将のような素晴らしい日本の武人を目指すように考えています。