武芸の道をひたすらにやってきて現代日本社会に思うことはたくさんあります。
その中で今私自身も所謂中高年と呼ばれる世代になって10代、20代、30代の自分。
そして「今」の自分を築いてきた中での感覚を思うと、この世には多くの「幻」に取りつかれている人々が多くいると思います。
例えば、エンターテイメントと呼ばれる「幻」
アイドルという「幻」
スターという「幻」
ゲームという「幻」
自身が熱狂する中で多くの自分の時間やお金、労力を費やしていくことにも何とも厭わずにいる中に「幻」がいつか自身に何かをしてくれるのであろうか、と小さな期待を込めて居続けてしまう。
更に、多くの政治家たちの言う「幻」
裕福な暮らしをしたいという「幻」
所詮、世の多くは幻に過ぎないことに気付けた人が真の生き方を楽しめるのだと思います。
武術世界にもたくさんの「幻」が存在しています。
私は今現在、武術のあり方も含めての「幻」については教え子たちにも厳しく戒めています。
私も現代日本社会に生まれて自身の経験でも少年時代にも、その「幻」に魅せられ騙されてしまっていた時期も若干はありました。
様々なリアルタイムの「現実」を見続けて生きてきたことで見えてきた「実際の姿」があり、そこから脱し、その他多くの幻から離脱ができました。
しかし、それはかつての「憧れ」とも言えるし、今ではリアルタイムの辿りついた自身の世界観や体感の方が遙かに勝っています。
古えの賢人たちはそれに気付き、今までに数千年間にも渡って「真実」を誰にでも判り易いところに様々なところへ教えてくれています。
しかし現代人の多くはそれに関心も興味を示さず「幻」に関心を示します。
現代日本社会では更に気をつけなければならないのは「ややこしい世界」の「幻」があることです。
「幻」ではない、と言いながらまた別次元の「幻」の世界へと誘うようなことをやっている人たちです。
これが今やかなりの数になっていて、ややこしくなっています。
この根幹は何なのだろう、と思っていたら実は長い間に政界・財界が国の予算を使ってやっていることに気付いた時に「そういうことか」と判りました。
それは「教育」とか「事業」にもそういうシステムのものがたくさんあります。
みんなで右に運べ、と言われれば迷わず右へ運び、左へ運べと言われたら迷わず左へと運ばされる。
運ぶ人は何故に運ぶのかは知らされず、だんだん疲労が溜まるようになっています。
その疲労を取り除いたり、ストレスの発散をするためにエンターテイメントなどの「幻」が便利です。
そして時々「荷物を運ぶのに疲れませんか」と聞かれ、「疲れています」と答えれば、
ではこちらへどうぞと別のところへ連れていかれて「ああよかった、救われた」と思わされます。
そしてまた別の荷物を右から左、左から右へと運ばされること、そしてまた別の「疲れませんか」の誘いのやりとりの繰り返しが待っています。
エンターテイメントも品を替え人を替えて、また次から次へと「幻」の新商品を並べます。
更にすごいのは食べさせられる物、飲み物、薬、これらもまた同じ「幻」になっていたりすることです。
とにかく「幻のすべて」を早く全部捨てることが一番自分らしい自分でいられます。
自分の武芸人生で良かったことは普通の人たちよりも本能的直感で心身の感覚を磨き続けることを無意識的にもやり続けてきたことで「幻」に労力を費やしたのは最小限に抑えられて今を有意義に生きていられることです。
しかし誰しもこの世に生きていく中では人それぞれは如何に「幻」から逃れられる試練を経て自由になれるのかも知れません。
それを「出家」や「解脱」、「悟り」という言葉などを通じて賢人は語り伝えてくれています。
しかしながら今現在は、この尊い言葉などにも「幻」をつけてくる輩や勢力があるので注意が必要です。
困った世の中なのですが、しかしこれを作り上げたのも残念だけれども現代日本社会人たちであり、世代によっては気付かずにもこれらを結果的には奨励させてしまうことをやってきてしまった事実があります。
私の経験では先ず武術の外家拳をやって套路、対練、短兵、散手などを行って脳と筋肉と骨を最大限に鍛え、内家拳は太極拳や形意拳などで更なる精妙さをも磨き、
導引や五禽戯などの気功や呼吸法で五臓を活性化し、そして日本剣術を行うことを通して崇高なる日本刀の魂との一体感という心強い結びつきを得ます。
そして温泉などで身体を癒し、山川海で清々しい自然を心身を感じて、本当に身体に良い飲食をして、
ゆっくりと身体を休めて本当に世の中に必要な労働をしていくことを奨励しています。
そうすることで本当に他国には絶対にない、この日本の素晴らしい天地:アメツチ風土、大自然、心優しい素朴な民の有り難さ、尊さを実感できます。
今の日本にはこれらの再実感が必要で、感じられるための活動の重要さを改めて認識をします。
しかしかたちを変えてもこれらの連続が、ずっと今までの日本の歴史であったのだとも感じています。
その中で今私自身も所謂中高年と呼ばれる世代になって10代、20代、30代の自分。
そして「今」の自分を築いてきた中での感覚を思うと、この世には多くの「幻」に取りつかれている人々が多くいると思います。
例えば、エンターテイメントと呼ばれる「幻」
アイドルという「幻」
スターという「幻」
ゲームという「幻」
自身が熱狂する中で多くの自分の時間やお金、労力を費やしていくことにも何とも厭わずにいる中に「幻」がいつか自身に何かをしてくれるのであろうか、と小さな期待を込めて居続けてしまう。
更に、多くの政治家たちの言う「幻」
裕福な暮らしをしたいという「幻」
所詮、世の多くは幻に過ぎないことに気付けた人が真の生き方を楽しめるのだと思います。
武術世界にもたくさんの「幻」が存在しています。
私は今現在、武術のあり方も含めての「幻」については教え子たちにも厳しく戒めています。
私も現代日本社会に生まれて自身の経験でも少年時代にも、その「幻」に魅せられ騙されてしまっていた時期も若干はありました。
様々なリアルタイムの「現実」を見続けて生きてきたことで見えてきた「実際の姿」があり、そこから脱し、その他多くの幻から離脱ができました。
しかし、それはかつての「憧れ」とも言えるし、今ではリアルタイムの辿りついた自身の世界観や体感の方が遙かに勝っています。
古えの賢人たちはそれに気付き、今までに数千年間にも渡って「真実」を誰にでも判り易いところに様々なところへ教えてくれています。
しかし現代人の多くはそれに関心も興味を示さず「幻」に関心を示します。
現代日本社会では更に気をつけなければならないのは「ややこしい世界」の「幻」があることです。
「幻」ではない、と言いながらまた別次元の「幻」の世界へと誘うようなことをやっている人たちです。
これが今やかなりの数になっていて、ややこしくなっています。
この根幹は何なのだろう、と思っていたら実は長い間に政界・財界が国の予算を使ってやっていることに気付いた時に「そういうことか」と判りました。
それは「教育」とか「事業」にもそういうシステムのものがたくさんあります。
みんなで右に運べ、と言われれば迷わず右へ運び、左へ運べと言われたら迷わず左へと運ばされる。
運ぶ人は何故に運ぶのかは知らされず、だんだん疲労が溜まるようになっています。
その疲労を取り除いたり、ストレスの発散をするためにエンターテイメントなどの「幻」が便利です。
そして時々「荷物を運ぶのに疲れませんか」と聞かれ、「疲れています」と答えれば、
ではこちらへどうぞと別のところへ連れていかれて「ああよかった、救われた」と思わされます。
そしてまた別の荷物を右から左、左から右へと運ばされること、そしてまた別の「疲れませんか」の誘いのやりとりの繰り返しが待っています。
エンターテイメントも品を替え人を替えて、また次から次へと「幻」の新商品を並べます。
更にすごいのは食べさせられる物、飲み物、薬、これらもまた同じ「幻」になっていたりすることです。
とにかく「幻のすべて」を早く全部捨てることが一番自分らしい自分でいられます。
自分の武芸人生で良かったことは普通の人たちよりも本能的直感で心身の感覚を磨き続けることを無意識的にもやり続けてきたことで「幻」に労力を費やしたのは最小限に抑えられて今を有意義に生きていられることです。
しかし誰しもこの世に生きていく中では人それぞれは如何に「幻」から逃れられる試練を経て自由になれるのかも知れません。
それを「出家」や「解脱」、「悟り」という言葉などを通じて賢人は語り伝えてくれています。
しかしながら今現在は、この尊い言葉などにも「幻」をつけてくる輩や勢力があるので注意が必要です。
困った世の中なのですが、しかしこれを作り上げたのも残念だけれども現代日本社会人たちであり、世代によっては気付かずにもこれらを結果的には奨励させてしまうことをやってきてしまった事実があります。
私の経験では先ず武術の外家拳をやって套路、対練、短兵、散手などを行って脳と筋肉と骨を最大限に鍛え、内家拳は太極拳や形意拳などで更なる精妙さをも磨き、
導引や五禽戯などの気功や呼吸法で五臓を活性化し、そして日本剣術を行うことを通して崇高なる日本刀の魂との一体感という心強い結びつきを得ます。
そして温泉などで身体を癒し、山川海で清々しい自然を心身を感じて、本当に身体に良い飲食をして、
ゆっくりと身体を休めて本当に世の中に必要な労働をしていくことを奨励しています。
そうすることで本当に他国には絶対にない、この日本の素晴らしい天地:アメツチ風土、大自然、心優しい素朴な民の有り難さ、尊さを実感できます。
今の日本にはこれらの再実感が必要で、感じられるための活動の重要さを改めて認識をします。
しかしかたちを変えてもこれらの連続が、ずっと今までの日本の歴史であったのだとも感じています。