今までに振り返ると自分が幼少の頃は両親に与えられた日本神話が好きでそれをよく読んでいました、そしてその後の少年時代では時代劇が好きになり その影響もあって少年剣士として育ってきていました。

そこで小学校中学年から高学年ぐらいでブルース・リーから大きなカラテブームがあってそれから日本で本格的なカンフーブームが起こりました。

テレビでもたくさん紹介され、1975~1980年代後半頃までそれは続きました。

自分はよりレベルの高い世界を目指し中国武術界へ足を踏み入れました。

自分の性格は血筋もあると思います。とにかく徹底的であり、言葉通りに「徹して底までいく」性格でした。

これは自分の人生で善くも悪くもありました・・

中国武術は今年の秋での30年間、朝から晩までそのことばかりにひたすらに没頭し続けてきました。そしてこの武術を活かす仕事に就くようになりました。

しかしながら、この2年前~昨年あたりから、その自分にも不思議な変化が生まれました。

気付けば より強い、日本武士への回帰への帰郷の「想い」だったと思います。

そうなったら居ても立ってもいられず、今度は再び日本史、古事記・日本書紀の歴史を更に深く調べ、神話にまつわる地や神社を巡り歩きました。

日本精神を考え、その護り神の化身である磨き上げられた日本刀の刃をいつも眺めて想っては柄を握り、剣術の技法や歴史を思って時間があればいつも刀を構えては用いています。

ふと、今辿りついた境地を文字でしたためてみると、

歴史ある伝統中国武術精神では人間の持つ感覚を「精」「気」「神」の「三華」といいます。

私個人としての体感からの経験として思うに、やはり中華民族的思想の「個人主義」の徹底した最終的「自我」の「心身」の向上を高めるだけ高めた結果、その「精気神」の統合した感覚をすべて、としていると思っています。

日本では、やはり感覚はまったく異なっていると思いました。

縄文時代から弥生時代、古墳時代を経ての歴史的時勢の流れの中で統一した大和文化の民族的感覚は「意」「気」「地」だと思うのです。

日本では「意気地なし」というのも、その大和民族男児らしからぬ、のは意気地が足りないぞ、というところから来るように感じています。

日本の歴史的出来事を見れば大体が「意気地が弱くなった者:弱められた者」を「意気地の悪い者」が強くなると嫌がらせをしたりしてきています。

「意気地の強い者」が、それに打ち克ち、歴史を動かしてきたように感じています。

日本人の私がこの長き伝統中国文化を広い範囲で学んだ感想としては、古典医学での気功理論の中でみると、

「意:おもい」と、

「気」ここでは、3つの気という言葉で用いられる統合した感覚の中での、

「天気:大自然を動かすエネルギー体の気」

「空気:呼気、吸気を用いる総合した呼吸力の存在意識の用いる気」

「気分:心のはたらき、大脳に関する場所である内臓の心臓や小腸の感覚が活性化すると快活な感覚でいう活気での気」


そして「地」

神道での産土神の概念での「土着」からの力、つまりは住む地の自然力、多くの民衆意識、そして共に一緒になっていける「自分自身の総合力」

この3つが日本精神的「意気地」というように思っています。

今私の感想としては27年前から幾度も繰り返し中国大陸へ渡っては、武術の練功と業を果たし、武術における「精気神」を体覚・意識することが出来て、

今、日本の感覚にと完全回帰して感じたことは、

「意気地の力」を味方にして誰でも毎日精進して正しく能力を高めに高められれば、より大きな力を得られるはずだと感じています。

これらを意識して、多くの日本人が誇りを持って高めれば高めるほど、今現在での国際社会での外交問題や経済の問題、

そして国内での問題などの多くでの未病を解決していくことのできる、具体的な実践の一歩一歩の実現になるだろう、と私は思います。