振り返って思えば今までに来たことの中でやってきたことは武術における苦練と学習環境の芳しくない中でも自分が知りたい、学びたいことの積み重ねの連続でした。
意外に思われることかも知れませんが自分が真剣に学問に目覚めたのは大学入試に落ちて通った予備校の授業の中でした。
東洋大学に進学し、そこで中国語をマスターし、近代日本文学、中国思想・哲学、日本思想、宗教学、政治学を学びました。
大学の図書館では多くの資料があり、自分の行っていた中国武術にも関連ある思想哲学をここで既に日本で知ることができました。
私の家は姉兄妹と自分の兄弟4人の6人家族で時折、母の愛知の実家から祖母や叔母が3ヶ月くらいの期間でお手伝いに来てくれていたので7人家族という感じでした。
幼少時代は比較的余裕のある暮らしだったのを覚えています。しかし小学5~6年生の頃に父が事業でつまずいて、その後は厳しい生活になっていきました。
その時も父は必死でなんとか新しい事業を頑張っていました。母は美容師で美容院を経営していましたがちょうどその頃に美容液などの悪影響で呼吸器疾患を患い入院をしてしまったこともありました。
剣道を辞めて、自分は中国武術を学びたい、ということを中学生の時に告げた頃、父は「自分のやりたい道を行くのだから自分で何とかしろ」と言われました。
思い出せば家が経済的に苦しい時にそんなことを言う馬鹿息子の自分を思います。
でも大事なことは「自分で何でも真剣にやらなければ、人間は何も身につかない」という本質を父が教えてくれたことです。
やっぱり月謝や交通費などの費用がかかるので何とかお金を工面しなければと考え、兄も武術が好きだったので二人で新聞配達を始めました。
学校に行く前の早朝にひと仕事を終えてから学校へ行きました。
時々は楽をしたいな、といつも思っていましたが自分のやりたいことを成し遂げるためには何とか頑張らねば、と奮起しました。
しかし団地での仕事だったので毎日いつも何度も何度も階段を5階まで登って降りてを繰り返しました。思えばこれもまるで少林寺での修行のようになっていて足腰の鍛錬にはよかったことも後には思いました。
これはその後高校生まで続けたので6年間毎朝やりました。その頃休刊日というのは半年に1回ぐらいしかなくて、たまにあっても習慣で専売所まで寝ぼけていってしまい、シャッターが閉まっていて「間違えた!」と気付くことが何回もありました。
正月は一部がものすごい分厚くて大変でした。2日のみが休みでした。
でもこうして得られた給料はひと月に24000円ほどもらえたので普通の子のお小遣いよりは遥かに多いので、その使える充実感はとても嬉しかったです。
その中で武術を学ぶ月謝を払い、中国に行くための旅費を貯めて高校生の時は学校帰りに夜までにもう一つお弁当屋さんでアルバイトをしていたことがあります。
そこで1985年に全日本大会前に練習との疲労のダブルパンチで盲腸炎を起こし我慢し過ぎて腹膜炎にまでなってしまい、
緊急手術をして1ヶ月間入院して死に掛けたこともありました。
あろうことか退院して次の週から武術の練習をして手術の縫合した傷口が伸びてしまい、今でもその傷を見ると馬鹿だな、と自分で思います。
予備校生の時に家を一度出て板橋で暮らしました。その頃に所属していた全日本太極拳協会の事務局が人手不足で今後の月謝は払わなくてもいいから武術の特待生ということで事務局員をやらないか、といわれて始めました。
聞いたら安い給料だからみんなすぐ辞めちゃうと言っていましたが自分にとっては願ってもない高待遇だったので喜んで引き受けました。
中国から長期間来ていた老師の付き人をして教室へお連れして自分も毎日習って、会員さんにも通訳をして、ということをしていました。
この頃が苦労の甲斐あって一番充実をしていました。
恩師の杜進老師の師爺徐文忠老師とは朝から晩までいつも一緒にいてとても多くを学ぶことができました。
その後すぐに協会が消滅してしまい、組織のあり方や人間関係の理不尽さを身近でまざまざと見せ付けられました。
仕方なく次の日から職探しをしました。当然仕送りなどは1銭もなく、家賃は自分の給料から払うので必死です。
自転車で走り回っていたらガソリンスタンドで募集の案内があったのですぐに飛び込みました。
そこですぐに採用になり嬉しかったです。
そこのガソリンスタンドでも仕事を覚えて楽しかったです。
そこで2年間ほど頑張りましたがやはり生活が苦しすぎたので後に狛江の実家へ戻ることになりました。
そしてその後はシフト制で時間を融通できることの利点を活かして京王プラザホテルで仕事を始め、そのまま大学を卒業をしても続けていました。
京王プラザでは仕事を覚え、比較的高い収入を初めて得ることができました。この頃は隔年で中国に武術を学びに行くときは1ヶ月~1ヵ月半ほどかけてクビを覚悟に仕事を休んでいきました。会社も理解があって大会でも成績を上げていたので店の中でも珍名人のような扱いでとてもよくしてくれました。
中国の武術隊での訓練は厳しいもので中国の武術大会の近いときになると毎日朝から夜までずっとでした。それに付き合ってやっているとちょうど1ヶ月ぐらいで周期的に身体がボロボロになってきて疲れきった頃日本に戻ってこれるという感じでした。ある種集中特訓ということで日本に帰ると少し楽になるので良い機会だったと思います。
(中国での生活は練習は厳しいけれども安穏とした気楽さがあるのですが、しかし日本ではまた気楽さのない別の辛さがありました・・)
この頃の日本での武術の練習は組織した武術隊での週3回ぐらいであとは自主練でやっていました。
その後自分の勤務していた店が撤退になったのでホテル・ニューオータニへ移りました。
そこでもすぐに慣れたのでそれなりに楽しかったです。
ここでも空いた時間でシフトを組んで早番を担当して夜は練習の繰り返しでした。
大会が終わると夜も担当して京王プラザで覚えたバーテンダーの仕事もしていました。
この頃は武術の大会にあまり興味がなくなった時であるジレンマを抱えていました。
そして新しくフィットネスクラブが多くできるようになって、インストラクターの派遣会社を経営している知り合いから声がかかり今もやっているフィットネス業界へ移りました。
そして上海体育学院の恩師である邱丕相老師が来日され養生学と導引の講座を知り合いに紹介され行って再会したら、養生の重要性を説かれて、これは大事だと再び上海体育学院でも学び直し、養生の実践をすぐに始めてから3年ほどでその意味が体感・理解できました。
そこから健身気功五禽戯、八段錦、伝統気功、華侘五禽戯と学びと研究の実践が続きました。
今日こうして振り返ってみるとありとあらゆる仕事をこなしてきて、それはかたちは異なるけれど全部が全部繋がっていることを思います。
知られた学校や研究施設にいたとしても真剣に何も学ばなければ空虚な時間が過ぎるだけ、空いている時間は自分次第でいつでも作れて、正しいやり方を知っていれば練習もできるし、素晴らしい学問に触れる機会を作っては学び、専門の研究書物なども入手しておけば後に時間をかけて勉強や研究はできることです。
(養生学は正しく学んだ知識と掘り下げることと効能の実践と研究の連続にあると思います)
6年間毎朝やっていた新聞配達で少年時代に春夏秋冬、暑気~寒気の入れ替わる陰陽四季の季節の変化を身体感覚で無意識ながらも既に覚えていたこと。
ガソリンスタンドやホテルでの接客の仕事や従業員同士でもコミュニケーションの重要さを知り、収支における基本的な考え方を学びました。
そして紀尾井町のニューオータニでの仕事でいろいろとここは影の舞台で財界や政治家などの内幕の取引がしょっちゅうあることを知ったこと。
一流と呼ばれる高級ホテルにおいてでも慣れてしまえばただの物質を集めた空間なだけで心の安らかさがなければ価値も何とも感じなくなる虚しさを知ったこと。
人生は人それぞれ、仕事も人それぞれ。
どれが良いかは個人ひとり一人が決めていくもの。
今の日本での平均寿命は女性86歳、男性は79歳。
今の仕事をしながら定年退職された方々の実情をたくさん知っています。
私が指導している中で最高齢が81歳の時に始めて現在91歳の方がいます。自分は思うに一生涯できる仕事を既に身に付けたのだからある意味で不思議な境地を感じる時があります。
思うに仕事というのは報酬のためにやるのではなく、生きていく中で有意義にしていくためにしていくことだと自分は思っています。
意外に思われることかも知れませんが自分が真剣に学問に目覚めたのは大学入試に落ちて通った予備校の授業の中でした。
東洋大学に進学し、そこで中国語をマスターし、近代日本文学、中国思想・哲学、日本思想、宗教学、政治学を学びました。
大学の図書館では多くの資料があり、自分の行っていた中国武術にも関連ある思想哲学をここで既に日本で知ることができました。
私の家は姉兄妹と自分の兄弟4人の6人家族で時折、母の愛知の実家から祖母や叔母が3ヶ月くらいの期間でお手伝いに来てくれていたので7人家族という感じでした。
幼少時代は比較的余裕のある暮らしだったのを覚えています。しかし小学5~6年生の頃に父が事業でつまずいて、その後は厳しい生活になっていきました。
その時も父は必死でなんとか新しい事業を頑張っていました。母は美容師で美容院を経営していましたがちょうどその頃に美容液などの悪影響で呼吸器疾患を患い入院をしてしまったこともありました。
剣道を辞めて、自分は中国武術を学びたい、ということを中学生の時に告げた頃、父は「自分のやりたい道を行くのだから自分で何とかしろ」と言われました。
思い出せば家が経済的に苦しい時にそんなことを言う馬鹿息子の自分を思います。
でも大事なことは「自分で何でも真剣にやらなければ、人間は何も身につかない」という本質を父が教えてくれたことです。
やっぱり月謝や交通費などの費用がかかるので何とかお金を工面しなければと考え、兄も武術が好きだったので二人で新聞配達を始めました。
学校に行く前の早朝にひと仕事を終えてから学校へ行きました。
時々は楽をしたいな、といつも思っていましたが自分のやりたいことを成し遂げるためには何とか頑張らねば、と奮起しました。
しかし団地での仕事だったので毎日いつも何度も何度も階段を5階まで登って降りてを繰り返しました。思えばこれもまるで少林寺での修行のようになっていて足腰の鍛錬にはよかったことも後には思いました。
これはその後高校生まで続けたので6年間毎朝やりました。その頃休刊日というのは半年に1回ぐらいしかなくて、たまにあっても習慣で専売所まで寝ぼけていってしまい、シャッターが閉まっていて「間違えた!」と気付くことが何回もありました。
正月は一部がものすごい分厚くて大変でした。2日のみが休みでした。
でもこうして得られた給料はひと月に24000円ほどもらえたので普通の子のお小遣いよりは遥かに多いので、その使える充実感はとても嬉しかったです。
その中で武術を学ぶ月謝を払い、中国に行くための旅費を貯めて高校生の時は学校帰りに夜までにもう一つお弁当屋さんでアルバイトをしていたことがあります。
そこで1985年に全日本大会前に練習との疲労のダブルパンチで盲腸炎を起こし我慢し過ぎて腹膜炎にまでなってしまい、
緊急手術をして1ヶ月間入院して死に掛けたこともありました。
あろうことか退院して次の週から武術の練習をして手術の縫合した傷口が伸びてしまい、今でもその傷を見ると馬鹿だな、と自分で思います。
予備校生の時に家を一度出て板橋で暮らしました。その頃に所属していた全日本太極拳協会の事務局が人手不足で今後の月謝は払わなくてもいいから武術の特待生ということで事務局員をやらないか、といわれて始めました。
聞いたら安い給料だからみんなすぐ辞めちゃうと言っていましたが自分にとっては願ってもない高待遇だったので喜んで引き受けました。
中国から長期間来ていた老師の付き人をして教室へお連れして自分も毎日習って、会員さんにも通訳をして、ということをしていました。
この頃が苦労の甲斐あって一番充実をしていました。
恩師の杜進老師の師爺徐文忠老師とは朝から晩までいつも一緒にいてとても多くを学ぶことができました。
その後すぐに協会が消滅してしまい、組織のあり方や人間関係の理不尽さを身近でまざまざと見せ付けられました。
仕方なく次の日から職探しをしました。当然仕送りなどは1銭もなく、家賃は自分の給料から払うので必死です。
自転車で走り回っていたらガソリンスタンドで募集の案内があったのですぐに飛び込みました。
そこですぐに採用になり嬉しかったです。
そこのガソリンスタンドでも仕事を覚えて楽しかったです。
そこで2年間ほど頑張りましたがやはり生活が苦しすぎたので後に狛江の実家へ戻ることになりました。
そしてその後はシフト制で時間を融通できることの利点を活かして京王プラザホテルで仕事を始め、そのまま大学を卒業をしても続けていました。
京王プラザでは仕事を覚え、比較的高い収入を初めて得ることができました。この頃は隔年で中国に武術を学びに行くときは1ヶ月~1ヵ月半ほどかけてクビを覚悟に仕事を休んでいきました。会社も理解があって大会でも成績を上げていたので店の中でも珍名人のような扱いでとてもよくしてくれました。
中国の武術隊での訓練は厳しいもので中国の武術大会の近いときになると毎日朝から夜までずっとでした。それに付き合ってやっているとちょうど1ヶ月ぐらいで周期的に身体がボロボロになってきて疲れきった頃日本に戻ってこれるという感じでした。ある種集中特訓ということで日本に帰ると少し楽になるので良い機会だったと思います。
(中国での生活は練習は厳しいけれども安穏とした気楽さがあるのですが、しかし日本ではまた気楽さのない別の辛さがありました・・)
この頃の日本での武術の練習は組織した武術隊での週3回ぐらいであとは自主練でやっていました。
その後自分の勤務していた店が撤退になったのでホテル・ニューオータニへ移りました。
そこでもすぐに慣れたのでそれなりに楽しかったです。
ここでも空いた時間でシフトを組んで早番を担当して夜は練習の繰り返しでした。
大会が終わると夜も担当して京王プラザで覚えたバーテンダーの仕事もしていました。
この頃は武術の大会にあまり興味がなくなった時であるジレンマを抱えていました。
そして新しくフィットネスクラブが多くできるようになって、インストラクターの派遣会社を経営している知り合いから声がかかり今もやっているフィットネス業界へ移りました。
そして上海体育学院の恩師である邱丕相老師が来日され養生学と導引の講座を知り合いに紹介され行って再会したら、養生の重要性を説かれて、これは大事だと再び上海体育学院でも学び直し、養生の実践をすぐに始めてから3年ほどでその意味が体感・理解できました。
そこから健身気功五禽戯、八段錦、伝統気功、華侘五禽戯と学びと研究の実践が続きました。
今日こうして振り返ってみるとありとあらゆる仕事をこなしてきて、それはかたちは異なるけれど全部が全部繋がっていることを思います。
知られた学校や研究施設にいたとしても真剣に何も学ばなければ空虚な時間が過ぎるだけ、空いている時間は自分次第でいつでも作れて、正しいやり方を知っていれば練習もできるし、素晴らしい学問に触れる機会を作っては学び、専門の研究書物なども入手しておけば後に時間をかけて勉強や研究はできることです。
(養生学は正しく学んだ知識と掘り下げることと効能の実践と研究の連続にあると思います)
6年間毎朝やっていた新聞配達で少年時代に春夏秋冬、暑気~寒気の入れ替わる陰陽四季の季節の変化を身体感覚で無意識ながらも既に覚えていたこと。
ガソリンスタンドやホテルでの接客の仕事や従業員同士でもコミュニケーションの重要さを知り、収支における基本的な考え方を学びました。
そして紀尾井町のニューオータニでの仕事でいろいろとここは影の舞台で財界や政治家などの内幕の取引がしょっちゅうあることを知ったこと。
一流と呼ばれる高級ホテルにおいてでも慣れてしまえばただの物質を集めた空間なだけで心の安らかさがなければ価値も何とも感じなくなる虚しさを知ったこと。
人生は人それぞれ、仕事も人それぞれ。
どれが良いかは個人ひとり一人が決めていくもの。
今の日本での平均寿命は女性86歳、男性は79歳。
今の仕事をしながら定年退職された方々の実情をたくさん知っています。
私が指導している中で最高齢が81歳の時に始めて現在91歳の方がいます。自分は思うに一生涯できる仕事を既に身に付けたのだからある意味で不思議な境地を感じる時があります。
思うに仕事というのは報酬のためにやるのではなく、生きていく中で有意義にしていくためにしていくことだと自分は思っています。