最近、今までの自分自身の行動感覚を解析していて気付いたことがあります。
この現代日本に生まれ生きてきて、日本武芸剣術と中国武術全般を学び 多くは中国へ足へ運び、その他に海外にはアメリカに2回、香港に3回、ベトナムに1回、オランダへ1回行きました。
海外に出て多くを気付く人はあると思いますが今の日本という国家の本質的な欠陥へと意識を辿りつかせることができる人は少ないと思います。
私の感覚からでは名づけると「受動的能動力」「受動的受動力」というものがあって、この二つの感覚のみの性質だけを持つ人が日本ではほとんどの7割以上を占めていると感じています。
それ以外には「能動的能動力」「能動的受動力」があり、この2つを極めていくことをするのが武芸の道でもあり、世界的にも有能とされているものだと思います。
では「能動的能動力」というのはどういうものか、といえば
例えればサッカーでキックオフをした瞬間にボールを持つ選手がすぐさまゴールへめがけて走り出し、ドリブルしていき、そのままゴールへボールを放り込むことです。
あるいは音楽の歌い手や演奏家にも例えられますし、絵画を含む芸術家はすべてこの種類に入るものと思います。
そして能動的受動力というものは先ほどのサッカーでならば、
敵対するチームの選手からの攻撃をかわしながらも、防御を突破しながら更に攻撃へと入っていく、ということです。
私自身は少年時代にこの感覚を本質的に察知してからずっと今までにこの感覚こそのみ究めようと研鑽をしてきたと思うのです。
こうして考えれば現代日本の問題の多くに気付くと思います。
一番重要な国防での軍事面においてでも自衛隊は受動的能動力しかあたえられず、ゴールキーパーでありながらも打ちかえすことができず、やられっぱなしな存在になってしまうだけのことであり、
ひいては経済もすべてそうであり、一般職業的本質もそこにあるのです。
つまりは与えられて動くことしかできないことであり、ひいてはあたえられずに更に動けない、ということもたくさんあります。
少子高齢化問題の究極のことは、
小さな子と身体が不自由な高齢者ばかりの社会というのは自分で自分のことができず、依存している人にすべてが応対しなければならないことで
「能動的能動力」が一切発揮できず、あるいは育てられない環境だということなのです。
世界においてでも正義ではない、あるいは倫理道徳的に相応しくない「能動的能動力」がコントロールし、
正義を重要視して動こうとする「能動力」にチャンスが与えられないことへの不本意さがあることだと思います。
現世には人それぞれにいろいろと考えがあるけれども、つまりはこういうことなのだと思います。
追伸:
その能動力の境地を例えるなら、広く晴れ渡った青空が能動的能動力で

夕日に染まる雲が能動的受動力のように思っています。

そして共に「空:くう」でもあります
この現代日本に生まれ生きてきて、日本武芸剣術と中国武術全般を学び 多くは中国へ足へ運び、その他に海外にはアメリカに2回、香港に3回、ベトナムに1回、オランダへ1回行きました。
海外に出て多くを気付く人はあると思いますが今の日本という国家の本質的な欠陥へと意識を辿りつかせることができる人は少ないと思います。
私の感覚からでは名づけると「受動的能動力」「受動的受動力」というものがあって、この二つの感覚のみの性質だけを持つ人が日本ではほとんどの7割以上を占めていると感じています。
それ以外には「能動的能動力」「能動的受動力」があり、この2つを極めていくことをするのが武芸の道でもあり、世界的にも有能とされているものだと思います。
では「能動的能動力」というのはどういうものか、といえば
例えればサッカーでキックオフをした瞬間にボールを持つ選手がすぐさまゴールへめがけて走り出し、ドリブルしていき、そのままゴールへボールを放り込むことです。
あるいは音楽の歌い手や演奏家にも例えられますし、絵画を含む芸術家はすべてこの種類に入るものと思います。
そして能動的受動力というものは先ほどのサッカーでならば、
敵対するチームの選手からの攻撃をかわしながらも、防御を突破しながら更に攻撃へと入っていく、ということです。
私自身は少年時代にこの感覚を本質的に察知してからずっと今までにこの感覚こそのみ究めようと研鑽をしてきたと思うのです。
こうして考えれば現代日本の問題の多くに気付くと思います。
一番重要な国防での軍事面においてでも自衛隊は受動的能動力しかあたえられず、ゴールキーパーでありながらも打ちかえすことができず、やられっぱなしな存在になってしまうだけのことであり、
ひいては経済もすべてそうであり、一般職業的本質もそこにあるのです。
つまりは与えられて動くことしかできないことであり、ひいてはあたえられずに更に動けない、ということもたくさんあります。
少子高齢化問題の究極のことは、
小さな子と身体が不自由な高齢者ばかりの社会というのは自分で自分のことができず、依存している人にすべてが応対しなければならないことで
「能動的能動力」が一切発揮できず、あるいは育てられない環境だということなのです。
世界においてでも正義ではない、あるいは倫理道徳的に相応しくない「能動的能動力」がコントロールし、
正義を重要視して動こうとする「能動力」にチャンスが与えられないことへの不本意さがあることだと思います。
現世には人それぞれにいろいろと考えがあるけれども、つまりはこういうことなのだと思います。
追伸:
その能動力の境地を例えるなら、広く晴れ渡った青空が能動的能動力で

夕日に染まる雲が能動的受動力のように思っています。

そして共に「空:くう」でもあります