あちこちに指導へ行くことの中で、いろいろと会員さんに中国と日本との違いについて聞かれることがあります。
その時には私は大体、長所:良さの違いについてできるだけお話するようにしています。
例えば太極拳を行うにあたり、やはり一番初めは自意識を持って内面から外へと現すことが基本感覚だと思います。
教わる時も中国の先生方は躊躇なく、どんどんと意志表示や表現をしてありとあらゆる手段や方法を尽くして指導をしてくれます。
教わる方も指導されたことについて質問をし返していき、その受け答えの中で模索して練習をしていき技や方法や効能に気付いてできるようになっていく感じです。
自分は高校生の時からいち早くその感覚に慣れていたので技の吸収や理解がし易かったと感じています。
ですから私はこのことなどから日本と中国の風土や国民性、環境において人間は感覚が異なっていくことを自然体で知るようになりました。
ですが時々やはり私も習慣で自己主張が強くなり、日本人の特徴をあまりやらなくなることによって誤解を受け易いことも起きたことがよくありました。
例えば以前、ホテル業界で20代は仕事をしていました。
職場ではほとんどが上司はわがままな自己主張やりたい放題で部下は主張は許されず、ただ受身に徹するだけになってしまいます。
そして役職が昇格すると自己主張ができるようになり、人が変わったようになりまた次の部下へやりたい放題になり、また新しい受身の部下ができるようになって、この循環の繰り返しがあったと思います。
日本は封建社会も含めて、常に受身意識になり易く自己主張や表現を許される機会が少なく、そういった経験や訓練もできない環境があったように思います。
自分はその職場では基本的に聞き役を経てから主張していく、という感覚だったと思います。
途中で1996年頃からフィットネス業界というものが出来て、そちらに転向しました。
フィットネス業界はアメリカナイズされた感覚が底辺にあるので事務方以外の現場ではどんどん気付きやひらめきという自己主張をどんどんと行っていき、そこに気付く方があったら対応していくという方法をとっていきます。
ですからここで自分の職業的習慣で先ずは自己主張ありきで、気付きがある方などとの意見交換があり、ここで聞き役になって相互の主張を折り合わせていく、という感覚になったと思います。
自分の感覚では中国の人は基本的に互いの自己主張を言いたい放題ぶつけ合っていく中で答えを出していくような感じがします。
アメリカには2回行きましたが、積極的に自己主張をする、というところは中国人と同じですが、興味のない話には聞く耳を持たない、そんな気がしました。
日本では基本的に自己主張をするようなチャンスが人によってはなかなか訓練もできなかったように思うことがあります。
これは主張を許されるのは位が高い方のみで、ほとんどが人の主張を聞かされて対しての主張や意見を言うことは許されなかったような気風があると思いました。
時代劇を見ていると農民が苦しんでいて、そこへ孤高の侍が現れて、彼らの言えない本音や自己主張をどんどんとかましていく構図に描かれているのと似ていると思います。
今の日本を思うと、職場や環境や人それぞれの考え方それぞれで一応は基本的に誰でも自己主張は許されていると思うし、
人の主張も受け入れて融合して良い方へ持っていくようになっていると思います。
こうした経験の中での私の基本感覚は先に主張が出ることはあまりないので、受身でいる皆さんへ、広い範囲でのメッセージ性を考えてから、
先ず自分から意見を出し、自己主張をしていき、それに誰かが感じてくれて受け答えてくれる意見や要望が出て来たら、
どんどんとその出てきた主張と絡め合わせていく中で、物事をいい方向へ向けて進められるよう相互発展を望むというようにしています。
(でも、中国でかなり鍛えられてしまったから、相手からの意見が新しく出で来るまでの自分の主張が多く内容も長すぎて意見交換がうまくいかない事もあって反省することは多いです・・)
以前中国である方とお話をしていてこういうことがありました。
「日本は周りが海で国境がそのものだからいいね、中国は国境があちこちあるから大変だ」と言っていました。
私は「日本は確かにそれはいいのだけれど、海に囲まれているから逃げられないんだ」と答えました。
そこに「ハッとした」自分がいました。
そうだ、だからこそ日本人は内向的で受身になりやすかったんだ。しかし今は外に出られるのだから外へも中へも自在に変化対応が理想だ、と思ったのです。
中国と日本は長所を補って短所を克服できる機会のある関係が歴史的に長くあったと思います。
互いに思いやる心や気遣いがあって自己主張をのびのびとし合って聞きあって更なる意志交流ができるようになるとベストだと自分は思っています。
注意が必要だと思うのは両者の短所が強くなってしまった場合です。
互いに思いやりも気遣いもなく、自己主張もなし、根拠のない大袈裟な有り得ない理論の話や、繊細さも足りなくて、
聞く耳持たずで、意志疎通もする気なし、ということには気をつけなければならないことだと思います。
その時には私は大体、長所:良さの違いについてできるだけお話するようにしています。
例えば太極拳を行うにあたり、やはり一番初めは自意識を持って内面から外へと現すことが基本感覚だと思います。
教わる時も中国の先生方は躊躇なく、どんどんと意志表示や表現をしてありとあらゆる手段や方法を尽くして指導をしてくれます。
教わる方も指導されたことについて質問をし返していき、その受け答えの中で模索して練習をしていき技や方法や効能に気付いてできるようになっていく感じです。
自分は高校生の時からいち早くその感覚に慣れていたので技の吸収や理解がし易かったと感じています。
ですから私はこのことなどから日本と中国の風土や国民性、環境において人間は感覚が異なっていくことを自然体で知るようになりました。
ですが時々やはり私も習慣で自己主張が強くなり、日本人の特徴をあまりやらなくなることによって誤解を受け易いことも起きたことがよくありました。
例えば以前、ホテル業界で20代は仕事をしていました。
職場ではほとんどが上司はわがままな自己主張やりたい放題で部下は主張は許されず、ただ受身に徹するだけになってしまいます。
そして役職が昇格すると自己主張ができるようになり、人が変わったようになりまた次の部下へやりたい放題になり、また新しい受身の部下ができるようになって、この循環の繰り返しがあったと思います。
日本は封建社会も含めて、常に受身意識になり易く自己主張や表現を許される機会が少なく、そういった経験や訓練もできない環境があったように思います。
自分はその職場では基本的に聞き役を経てから主張していく、という感覚だったと思います。
途中で1996年頃からフィットネス業界というものが出来て、そちらに転向しました。
フィットネス業界はアメリカナイズされた感覚が底辺にあるので事務方以外の現場ではどんどん気付きやひらめきという自己主張をどんどんと行っていき、そこに気付く方があったら対応していくという方法をとっていきます。
ですからここで自分の職業的習慣で先ずは自己主張ありきで、気付きがある方などとの意見交換があり、ここで聞き役になって相互の主張を折り合わせていく、という感覚になったと思います。
自分の感覚では中国の人は基本的に互いの自己主張を言いたい放題ぶつけ合っていく中で答えを出していくような感じがします。
アメリカには2回行きましたが、積極的に自己主張をする、というところは中国人と同じですが、興味のない話には聞く耳を持たない、そんな気がしました。
日本では基本的に自己主張をするようなチャンスが人によってはなかなか訓練もできなかったように思うことがあります。
これは主張を許されるのは位が高い方のみで、ほとんどが人の主張を聞かされて対しての主張や意見を言うことは許されなかったような気風があると思いました。
時代劇を見ていると農民が苦しんでいて、そこへ孤高の侍が現れて、彼らの言えない本音や自己主張をどんどんとかましていく構図に描かれているのと似ていると思います。
今の日本を思うと、職場や環境や人それぞれの考え方それぞれで一応は基本的に誰でも自己主張は許されていると思うし、
人の主張も受け入れて融合して良い方へ持っていくようになっていると思います。
こうした経験の中での私の基本感覚は先に主張が出ることはあまりないので、受身でいる皆さんへ、広い範囲でのメッセージ性を考えてから、
先ず自分から意見を出し、自己主張をしていき、それに誰かが感じてくれて受け答えてくれる意見や要望が出て来たら、
どんどんとその出てきた主張と絡め合わせていく中で、物事をいい方向へ向けて進められるよう相互発展を望むというようにしています。
(でも、中国でかなり鍛えられてしまったから、相手からの意見が新しく出で来るまでの自分の主張が多く内容も長すぎて意見交換がうまくいかない事もあって反省することは多いです・・)
以前中国である方とお話をしていてこういうことがありました。
「日本は周りが海で国境がそのものだからいいね、中国は国境があちこちあるから大変だ」と言っていました。
私は「日本は確かにそれはいいのだけれど、海に囲まれているから逃げられないんだ」と答えました。
そこに「ハッとした」自分がいました。
そうだ、だからこそ日本人は内向的で受身になりやすかったんだ。しかし今は外に出られるのだから外へも中へも自在に変化対応が理想だ、と思ったのです。
中国と日本は長所を補って短所を克服できる機会のある関係が歴史的に長くあったと思います。
互いに思いやる心や気遣いがあって自己主張をのびのびとし合って聞きあって更なる意志交流ができるようになるとベストだと自分は思っています。
注意が必要だと思うのは両者の短所が強くなってしまった場合です。
互いに思いやりも気遣いもなく、自己主張もなし、根拠のない大袈裟な有り得ない理論の話や、繊細さも足りなくて、
聞く耳持たずで、意志疎通もする気なし、ということには気をつけなければならないことだと思います。