子供の頃というのは天使と悪魔が共存している時期なように思っています。

それは善悪というものを言葉では聞いて知っていても、それがどういうものかの本質は知らない、ということだと思います。

子供の頃にいたずらや悪さの経験をしておくと大人になってから影響性を考えてからの善行の尊さの重要性や「本当の悪さ」というのは何か、とか考え深みを知るようになると思います。

つまりは悪魔に利用されかけても天使に引き戻されることが大事に思います。

大人になってから真にたちの悪いのは善人や天使のふりをして悪行をどんどんとしているような政財界(世界的にも)の人間たちを見ると、子供の頃に見たヒーロー番組の主人公にも影響を受けることもあるだろうと思います(暗記勉強ばかりで素朴な正義を知らないで育った子供は大人になってひどくなるように思います)

私自身は子供の頃はかなりのいたずら坊主だったと思います。

というよりは何でもかんでも駄目駄目いうので何が駄目な理由なのか詳しく知りたかっただけだったのだと思います。

本格的な武術を行う武術院の活動では最近頑張っている少年の腕白ぶりやいたずら好きなところに懐かしく思うことがよくあって、私の少年時代をよく思い出します。

子供の好奇心からの行動というのは基本的に悪気のあるものはないと思います。

しかしそれがどういう結果になるかは、大人の適格な指導というものによりけりだと感じています。

ただ駄目だ、と禁止しても「やったらどうなるのだろうか」と子供は思うだろうし、駄目といわれたから「はい、駄目ですね。やりません」という教育では冒険心や勇気は育たないことだと思います。

ですから程度によってはやってはならないと厳しく叱ったり、様子を見ては見逃してやらせてみるうちに自ずから失敗し反省から学ぶようにすること、

その中で素直に「ごめんなさい」と心から謝ること。「ありがとう」とお礼を言うこと。

とりかえしのつかないことをしてしまった時は自分の人生をかけてでもお詫びをすることの難しさや迷惑をかけない、とはどういうことかを悩んだりしていくうちに、考えるようになり、

あるいは歴史ある文学作品や信仰の中にその悩みの本質を探るようになれば、

そこに懐の深さを通じて、自分が知らないことを知っていて教えてくれる大人への信頼というのが強くなることが大事に思います。

日本では時々ずっと思ってきたのは、厳しくしなければいけない時に、厳しくしなかったり、厳しくしなくていいところにやたらと厳しくしているのを感じることが今にでもたくさんあると思っています。

そのことへの疑問や反逆が裸の王様のお話にも描かれた「いたずら行為」というものにも表れている気がします。

私は中国での安徽省武術隊での経験がとても生きていると思います。

自分よりも遙かにすごい悪ガキたちがたくさんいて、それを自然体で教え諭し統率してまとめていく楊承冰老師のユーモア感覚や時に真剣な厳しさに学んだことはたくさんありました(実は今から25年前の楊老師の年齢に今の自分がなったのだという実感がちょっと不思議です)

男は特に早いうちに自ずから引き起こした失敗から悔しさや辛さを乗り越えて反省をしていき生きた経験から学び、先代の深い教えに学ぶことが大事だと思います。

私は子供たちに教える時は悪意があることかないことの違い、あるいは許されることと許されないこととの違いは「後で共に笑えるか、笑えないか」にあると教えています。これは「イジメ」かイジメじゃないか、ということも同じです。

最近は意気のある素直な悪ガキたちが少なくなったことも世が面白くなくなった原因なのかも知れません。

自分の小学生の思い出、中学生時代の少年時代・青年時代の思い出たちは喜怒哀楽の笑いあり、涙ありで今でも面白いストーリーだったように思います。

ちなみに中年時代の今でも日々がんばっております。