一昨日は朝は野外太極拳、午後は武術院の練習活動、午後はお祝いの会兼親睦会を行って一日中盛り上がっていました。

夜の宴会ではたくさんサプライズがあって大賑わいになりました。

仲間たちといろいろ語り合ううちにも、ふと気付いたことがありました。

この1~2年間は自分の感覚的にはある「悟り」があった気がします。

このことを話すと首をかしげられる方もあるのですが「達する」とかの境地はもうこれ以上を求めないことにあると思っています。

練習をしたい、と思うのは練習が足りないから求めることで、お金が欲しい、と思うのもお金が足りない、という理由なだけで、

時間が欲しい、人手が欲しい、ということもすべてがそういう理由は同じなのだと思います。

今年は今の時期によく休みの日には山を歩き回りました。

自分のその中の思いには人気のないところで、人工の物から出される騒音の
ないところで、いろいろと感じたい、考えておきたいということからでした。

今年の自分はそれさえも求めなくなりました。

最近思うに、現世は今までの既成概念からの単語や言葉があり過ぎていて「境地」を語るには難しいと感じる時が多いです。

例えば英語で「Believe」を「信じる」や「信仰」と訳しています。

その意味で現代日本人の多くは「Believe」「信」をどれぐらい自身に持っているだろうか、とも感じています。

かつて10年前ほどの自分自身にでも、まだそれが不足していたのだと思います。それは人にとっても然り、また国家や政府というものに対してもそうだったのだと思います。

ずっと今までの人生で武術・武道の芸事をしていなかった時間・空間では、生まれた時から6歳までの6年間だけでした。

その生きてきた時間の中で振り返れば、それまでには世にはなかったものがたくさん出てきて今日があり、またこれからもたくさん出てくるだろうと思います。

中国の武芸でも文化大革命で一度失伝して、近年に復刻新生させた少林武術や武当武術もそうですし、日本でも様々な武芸が新生したりしたことがあると思います。

自分もその様々な変化の中で生きてきて今思うには、もう充分に満ち足りた、という感覚です。

もう何かの技を学びたい、新たに誰かに学びたいということでもないですし、もっと、強くなりたい、うまくなりたい、とかもない感じです。

今迄に身についたものを大事にゆっくり熟させていく時間をゆっくり楽しんでいきたい、それだけに思います。

そこでの感覚において苦しみや迷いはもう生じない、自分はそれが「Believe」「信」ということだと思っています。

こういうと何かと言ってくる人がいますが、気付かない、あるいはそれらが「ない人」ゆえの理由だとわかったので、それらも気になりません。

自分が仲間や教え子達へ伝えたいのは、どうやってそれを思うかは、

とりあえずは身近に思う方法としては10年前の今日の日を思い出してみて、そこから今日の日の今までに「得たもの」のすべてを差し引いてみて、考えてみてみれば

そこに得たものに「Believe」があるはずだと思います。

失ったものがあったらそこには「Believe」がなかったからなのかも知れません。あるいはそれが「ない人」や「物」もそうだと思います。

ふと思えば世界中でも日本でもそれらを大事にしない、あるいは重要ささえも気づけなくなっている人が増えている現実を見ていますが、

今の私の仕事としては、正しく求める人へはチャンスを作ってあげたいと思います。

人生では「Believe」「信」こそが宝物でそれがあればあるほど豊かになれるのだと思っています。