武道・武芸も時代の変遷に伴い意識感覚の変遷もあると思います。
守るものを守る人もあるし、まぁいいんじゃないという妥協を繰り返すうちに気付けばまったく違うものになることもあります。
武道意識の強い方はよく「スポーツ」を批判することがあります。私も職業柄スポーツクラブ内でもそういった批判をして顰蹙を買うことは日常茶飯事です。
しかしスポーツの定義を知らぬ人が多いのも問題で、スポーツの定義とは、
人が身体を使って行う技術、あるいは遊戯における競争、というのものです。
ですからよく体育が嫌い、という方がいますが「身体を育む:体育」ではなく、
知らぬ、気付かぬうちに「スポーツ」の強要が苦手だった、という方が的確です。
私は日本国内でこうした、いい加減(加える、減らすが出鱈目、つまり加減が悪い)な体育運動指導界や、
宣伝だけは立派でも無知な人を引っ掛けるための効果が乏しい健康産業にも警鐘を鳴らしています。
武術家や武芸者は、毎日朝昼晩といつも危機意識が働き、どんな状況でも生き抜くためにある能力を磨き続けてこそなのです。
ですから今日みたいな日には昨晩の情報から早朝、最悪最低でも行動においては午前中で判断し実行するべきことです。
しかし、世には押し付けられた拝金主義、お金崇拝教団のシステムの下に判断の自由を許されない資本主義企業が支配していることが大きな問題に気付かずに支配されていることが多いです。
スポーツ団体もほとんどが、そうです。
「人間として正しくありたい」という信念:ポリシーよりも、
「お金が集まることに執着していく」方法:システムを第一にする考えです。
当然、そういった同調する人間たちが組織をつくり、上に行けば行くほどそのシステムに洗脳されるか、利用し易い人間が集まります。
武芸者:武道家ならばそれを一番に嫌うはずで、逆にそうでない人や武人としての能力を持たない人間たちが群がるものです。
昨年の震災後にすべてを失い困っている人たちにいち早くどのように救助活動をすべきか、と日本全国民が不況で大変な中でも思いやり精神で頑張っているときに、
「すぐに、とあるスポーツイベントをやろう、中止なんかせずにすぐにやろう!」「それを見て元気を出そう」なんて言った大馬鹿な老人男性がいました。
彼が最たる日本を駄目にした究極な愚か者意識の典型の具現者と実感しました。
彼に準ずれば準ずるほど、そういう人の意識がこれからの日本には不要だと思いました。
彼なら今日のような日でも「気合だ」とか「根性だ」とか「このような環境に打ち克ってこそだ」なんて言いながら自分は安全地帯で適当な気分で言いたい放題なのだろうと思いました。
一般世間意識では「体育」=「スポーツ!?」みたいな感覚がありますが、もっと考える必要があるように思います。
スポーツは確かに競争の中で切磋琢磨をして向上心を高める、ということでは目的意識を高められない人や、自意識の弱い人、
武道は難しいし、辛いし厳しいし大変だからお気楽で面白おかしい楽しいのが好き!という人には良いと思います。
見ていてハラハラ、ドキドキ感がいい、という人もあるでしょう。
時々、「人それぞれにいいならいいじゃ~ん」という人がいますが、
それはあくまで「利己本位」重視、
自分が良ければそれで良し、という暗黙の自己中心主義を認めて 多くがそうなっていいし、何があっても自分にとっては無関係という、
思いやり意識の欠如の正当化に見えることもあって注意が必要です。
今の日本社会には悪意はないけれど、結果は悪意がある人と同じような行いをしていることのように思える時もあります。
武道=武之道を行く人ならば、小さな自分を犠牲にしても大勢を救うために行いをする、これが原点です。
資本主義的スポーツ従事者はその逆で、自分(自分たち)に利益を多くするためには大勢が困っていることをネタにしてでもやりますよ!何でもテクニックですよ。自分たちが儲かるためには大勢はその消費者になってもらいますよ。
いろいろと意見はあると思いますが結果から見るとそう感じられます。
ゆえに、
私はスポーツ業界に入り込みながらも、武芸者として批判を承知でも警鐘を鳴らしながらもスポーツをより良い体育運動へと導き、
世界で一番優れたバランス感覚を持つ体育文化・精神文化を理解している国家、国民になれたらと思っていますし、なれる可能性があると信じています。
守るものを守る人もあるし、まぁいいんじゃないという妥協を繰り返すうちに気付けばまったく違うものになることもあります。
武道意識の強い方はよく「スポーツ」を批判することがあります。私も職業柄スポーツクラブ内でもそういった批判をして顰蹙を買うことは日常茶飯事です。
しかしスポーツの定義を知らぬ人が多いのも問題で、スポーツの定義とは、
人が身体を使って行う技術、あるいは遊戯における競争、というのものです。
ですからよく体育が嫌い、という方がいますが「身体を育む:体育」ではなく、
知らぬ、気付かぬうちに「スポーツ」の強要が苦手だった、という方が的確です。
私は日本国内でこうした、いい加減(加える、減らすが出鱈目、つまり加減が悪い)な体育運動指導界や、
宣伝だけは立派でも無知な人を引っ掛けるための効果が乏しい健康産業にも警鐘を鳴らしています。
武術家や武芸者は、毎日朝昼晩といつも危機意識が働き、どんな状況でも生き抜くためにある能力を磨き続けてこそなのです。
ですから今日みたいな日には昨晩の情報から早朝、最悪最低でも行動においては午前中で判断し実行するべきことです。
しかし、世には押し付けられた拝金主義、お金崇拝教団のシステムの下に判断の自由を許されない資本主義企業が支配していることが大きな問題に気付かずに支配されていることが多いです。
スポーツ団体もほとんどが、そうです。
「人間として正しくありたい」という信念:ポリシーよりも、
「お金が集まることに執着していく」方法:システムを第一にする考えです。
当然、そういった同調する人間たちが組織をつくり、上に行けば行くほどそのシステムに洗脳されるか、利用し易い人間が集まります。
武芸者:武道家ならばそれを一番に嫌うはずで、逆にそうでない人や武人としての能力を持たない人間たちが群がるものです。
昨年の震災後にすべてを失い困っている人たちにいち早くどのように救助活動をすべきか、と日本全国民が不況で大変な中でも思いやり精神で頑張っているときに、
「すぐに、とあるスポーツイベントをやろう、中止なんかせずにすぐにやろう!」「それを見て元気を出そう」なんて言った大馬鹿な老人男性がいました。
彼が最たる日本を駄目にした究極な愚か者意識の典型の具現者と実感しました。
彼に準ずれば準ずるほど、そういう人の意識がこれからの日本には不要だと思いました。
彼なら今日のような日でも「気合だ」とか「根性だ」とか「このような環境に打ち克ってこそだ」なんて言いながら自分は安全地帯で適当な気分で言いたい放題なのだろうと思いました。
一般世間意識では「体育」=「スポーツ!?」みたいな感覚がありますが、もっと考える必要があるように思います。
スポーツは確かに競争の中で切磋琢磨をして向上心を高める、ということでは目的意識を高められない人や、自意識の弱い人、
武道は難しいし、辛いし厳しいし大変だからお気楽で面白おかしい楽しいのが好き!という人には良いと思います。
見ていてハラハラ、ドキドキ感がいい、という人もあるでしょう。
時々、「人それぞれにいいならいいじゃ~ん」という人がいますが、
それはあくまで「利己本位」重視、
自分が良ければそれで良し、という暗黙の自己中心主義を認めて 多くがそうなっていいし、何があっても自分にとっては無関係という、
思いやり意識の欠如の正当化に見えることもあって注意が必要です。
今の日本社会には悪意はないけれど、結果は悪意がある人と同じような行いをしていることのように思える時もあります。
武道=武之道を行く人ならば、小さな自分を犠牲にしても大勢を救うために行いをする、これが原点です。
資本主義的スポーツ従事者はその逆で、自分(自分たち)に利益を多くするためには大勢が困っていることをネタにしてでもやりますよ!何でもテクニックですよ。自分たちが儲かるためには大勢はその消費者になってもらいますよ。
いろいろと意見はあると思いますが結果から見るとそう感じられます。
ゆえに、
私はスポーツ業界に入り込みながらも、武芸者として批判を承知でも警鐘を鳴らしながらもスポーツをより良い体育運動へと導き、
世界で一番優れたバランス感覚を持つ体育文化・精神文化を理解している国家、国民になれたらと思っていますし、なれる可能性があると信じています。