秋が深まってきて穏やかな季節になってきました、今年の5月には上海体育学院での学習ツアーを行い、本場の体育学校の武術学院教授の範先生や戴先生についてスタンダードのスタイルでの学習をしてきました。
昨年秋に勉強をしてもらっている中国武術段位制での武術理論のまとまったかたちとしての学習として中国武術博物館でも勉強会としての見学もしました。
そこで初めて私の言い続けてきたこと、スタンダードのスタイルを学んで欲しい、ということを理解してもらえたと思います。
日本ではまだまだ遥かに武術界全体として武学:武術理論や考え方、練習方法において理解が乏しくそのために我田引水的で未熟である、ということです。
私達は以前にも安徽省亳州市での伝統華侘五禽戯も学びに行き、中国にはそれぞれにおけるそれぞれのスタイルというものがある、ということを機会を作って武術院の皆さんに知ってもらえるように配慮してきました。
ですから武術項目、気功項目などはすべてに「それぞれのやり方」があり「人それぞれにも向いたやり方」がある、ということです。
しかしそこでも大事なのは「自分たちの世界だけが絶対的に偉くて正しい」というような倫理的にも偏向してはいけない、ということです。
私が指導やアドバイスで心掛けていることは後後の未来への発展ために、あるいは様々な心身的面において厄介な問題や害悪を引き起こしそうなものについては戒めるようにはしています。
(最近気付いたのは、面倒なのは多くは解っていない人が問題を大きくしているという現象です)
日本人は倫理道徳的に真面目であるところが(最近は少なくなってきたのかな・・)素晴らしいと信じています。
しかし今現在の日本では多種多様、国際化というところでの「負の部分」が顕著になってきています。
それは二つあると思いますが、一つは「分別の利かなくなった何でもあり精神」と「物を大事にしなくなった物質的な思い上がり感覚」です。
二つめは「物事の基準や考え方を自分自身の責任で意志を発揮し判断して決めていく能力が欠けていること」です。
一つめは先の震災を経験してから深く考えるようになって改善へと向かっている傾向があると思います。
しかしながら二つめはまだまだです。ここ数日間新聞やメディアで亡くなられた「スティーブ・ジョブ」は素晴らしい、というような記事がたくさんあふれてきています。
それらを見ながら感じたのは、彼の生前の遥か前からそれらを言いなさい、ということ。
あるいは元々古くから良いと感じていたのならば、はっきりと世にむかって大きく声高に「彼を認めない社会全体の空気がおかしいしよくない」といっぱいアピールして改善の証をしておきなさい、ということです。
大きな物事があってから、後になってきてから「そうだ、そうだ」とみんながみんな連呼して
共感者がやたらと増えていく、そして時間が経てば多くが忘れてしまい別の興味へ走る、こういう浮気精神は改善すべきだと思います。
良いと感じたら、それをえんえんと長く伝え続けるようにして欲しい。
駄目なものは駄目だと感じたら、それもえんえんと意志の元に続けて欲しい。
昨日の日本経済新聞の「教育と経済」というコラムにこういうことが書かれていました。
「教育が国の基礎であり、経済の基礎である、といえば異論を唱える人はいない・・」とあり、
そして「重箱の隅の知識を競わせ若者に過大なストレスを強いるセンター入試などは百害あって一利無し、などではないのだろうか。そんな風土からアップルのスティーブ・ジョブ氏が生まれるとは思えない」とある。
その通りだと、思う自分があり、
そしてもう一つはスティーブ・ジョブのような人を良しと考える人がまったくいないで、
センター試験で重箱の隅をつつかせる教育を良しと考えてその合格した人を重宝してきたということが、とにかく・とにかく・とにかくたくさんいて、
何一つ疑問を思わないでいて今迄に日本人の多くはやってきたという事実のことを言わないことです。
(この意味が解っていますか、ということです。これが叩き落しては持ち上げる、そして持ち上げては叩き落すの根幹だということです)
私は全体と個々の違いを知って考えるようにしています。
全体を個にしたり、個を全体にするような考えは稚拙である、ということを知って欲しいと思います。
ですから基本的には
「人間の生き方でもそれぞれのスタイルをそれぞれが確立して純粋に迷わずにベストを尽くし続けること」がしっかりとできるかできないか、
それだけだと思います。
昨年秋に勉強をしてもらっている中国武術段位制での武術理論のまとまったかたちとしての学習として中国武術博物館でも勉強会としての見学もしました。
そこで初めて私の言い続けてきたこと、スタンダードのスタイルを学んで欲しい、ということを理解してもらえたと思います。
日本ではまだまだ遥かに武術界全体として武学:武術理論や考え方、練習方法において理解が乏しくそのために我田引水的で未熟である、ということです。
私達は以前にも安徽省亳州市での伝統華侘五禽戯も学びに行き、中国にはそれぞれにおけるそれぞれのスタイルというものがある、ということを機会を作って武術院の皆さんに知ってもらえるように配慮してきました。
ですから武術項目、気功項目などはすべてに「それぞれのやり方」があり「人それぞれにも向いたやり方」がある、ということです。
しかしそこでも大事なのは「自分たちの世界だけが絶対的に偉くて正しい」というような倫理的にも偏向してはいけない、ということです。
私が指導やアドバイスで心掛けていることは後後の未来への発展ために、あるいは様々な心身的面において厄介な問題や害悪を引き起こしそうなものについては戒めるようにはしています。
(最近気付いたのは、面倒なのは多くは解っていない人が問題を大きくしているという現象です)
日本人は倫理道徳的に真面目であるところが(最近は少なくなってきたのかな・・)素晴らしいと信じています。
しかし今現在の日本では多種多様、国際化というところでの「負の部分」が顕著になってきています。
それは二つあると思いますが、一つは「分別の利かなくなった何でもあり精神」と「物を大事にしなくなった物質的な思い上がり感覚」です。
二つめは「物事の基準や考え方を自分自身の責任で意志を発揮し判断して決めていく能力が欠けていること」です。
一つめは先の震災を経験してから深く考えるようになって改善へと向かっている傾向があると思います。
しかしながら二つめはまだまだです。ここ数日間新聞やメディアで亡くなられた「スティーブ・ジョブ」は素晴らしい、というような記事がたくさんあふれてきています。
それらを見ながら感じたのは、彼の生前の遥か前からそれらを言いなさい、ということ。
あるいは元々古くから良いと感じていたのならば、はっきりと世にむかって大きく声高に「彼を認めない社会全体の空気がおかしいしよくない」といっぱいアピールして改善の証をしておきなさい、ということです。
大きな物事があってから、後になってきてから「そうだ、そうだ」とみんながみんな連呼して
共感者がやたらと増えていく、そして時間が経てば多くが忘れてしまい別の興味へ走る、こういう浮気精神は改善すべきだと思います。
良いと感じたら、それをえんえんと長く伝え続けるようにして欲しい。
駄目なものは駄目だと感じたら、それもえんえんと意志の元に続けて欲しい。
昨日の日本経済新聞の「教育と経済」というコラムにこういうことが書かれていました。
「教育が国の基礎であり、経済の基礎である、といえば異論を唱える人はいない・・」とあり、
そして「重箱の隅の知識を競わせ若者に過大なストレスを強いるセンター入試などは百害あって一利無し、などではないのだろうか。そんな風土からアップルのスティーブ・ジョブ氏が生まれるとは思えない」とある。
その通りだと、思う自分があり、
そしてもう一つはスティーブ・ジョブのような人を良しと考える人がまったくいないで、
センター試験で重箱の隅をつつかせる教育を良しと考えてその合格した人を重宝してきたということが、とにかく・とにかく・とにかくたくさんいて、
何一つ疑問を思わないでいて今迄に日本人の多くはやってきたという事実のことを言わないことです。
(この意味が解っていますか、ということです。これが叩き落しては持ち上げる、そして持ち上げては叩き落すの根幹だということです)
私は全体と個々の違いを知って考えるようにしています。
全体を個にしたり、個を全体にするような考えは稚拙である、ということを知って欲しいと思います。
ですから基本的には
「人間の生き方でもそれぞれのスタイルをそれぞれが確立して純粋に迷わずにベストを尽くし続けること」がしっかりとできるかできないか、
それだけだと思います。