この夏に上野の国立博物館を訪れるのは2回目です。
空海と密教美術展を初日に見に来て今日は、特別展「孫文と梅屋庄吉100年前の中国と日本」を観覧してきました。
孫文と梅屋庄吉 特別展
清朝:大清帝国の末期から今現在にまで続く、日本と中国との深い結び付きの真実を知ることができました。
何故に日本では歴史的に東京・横浜と台湾・香港との提携が深いことや今迄に感じていた中国共産党・北京と距離を置く、ということも解りました。
長く、そして深く本場の中国武術界にいるといくつかの謎を感じることがあったのですが、今日はこのおかげでほぼ全部を解消することができました。
これから私の師のお話になります。
徐文忠老師は、私が今でもずっと尊敬し伝統武術とはなんたるかを16歳~19歳までの間に身を持って教わった本物の武術家です。
知る人は知るお嬢様は現在中国武術協会の重鎮、徐淑貞老師です。
(今年上海体育学院の教授でお世話になった範燕美先生の先生でもあります)
そして現代武術の師はそして現代武術の師は徐貞淑貞老師と楊承冰老師です。
徐文忠老師は江蘇省出身で国民党でかつての仕事は政府要人のボディガードをしていたそうです。
国共内戦で国民党は共産党に破れ、台湾へ行ったことはご存知だと思います。当時の徐老師のご兄弟の家族の皆さんはすべて台湾へ行ってしまい、
徐老師はお嬢様の徐淑貞老師のために単独上海に残りました。
私が徐文忠老師とお会いできたのは1985年に初めて上海に行き、ある方のご紹介があって徐老師から刀術(風雲刀)を学ぶことができました。
中国武術協会は当然中国共産党のお膝元の組織なので徐老師は左遷状態となっており居住環境も良いものではありませんでした。
そのお家で学んだ時に気付いたのですが各種武器が並ぶ上に孫文の写真が飾ってありました。
その翌年の春に日本へ来ることになり、日本で再び指導を受けることができました。
その後1986年に安徽省武術隊で初めてトレーニングを受けるために上海から入り、お家を訪ねたのでしたが留守でお会いできませんでした。
そして1987年から安徽省武術隊高級教練の楊承冰老師と一緒に2回目の来日で長期間滞在で先生方と毎日一緒に生活をしていました。
楊老師はいつも一人で自由が好きで練習以外の時間帯ではひょいひょいとあちこちにでかけていました。
私は徐老師の指導へいつも付き人として一緒にいて、毎日指導を受けながら、ちょっとした通訳を行っていました。
徐老師は2年間ほど滞在しておられました、時に中国語を学校で勉強していた時なのでこの頃から大分、直接先生のお話を理解できるようになってきました。
1987年の夏の時でした、朝いつものように先生のお部屋に行くとお客様が3人いらっしゃっていました。
「先生は部屋へ入って待っていろ」と言いました。
先生は「これは私の弟とその奥さんとその子」だと教えてくれました。
「実はな、弟と会うのは40年ぶりなんだ」
「私が日本に来ていることで会いに来てくれたんだ・・しかしもう互いにこんなに年をとってしまった」と言って、また弟様と奥様と一緒に抱き合っていました。
私はしばらくそこへいて「では先生、また午後にやって来ます」といって、その場をおいとましました。
私はそれからいろいろと考えていました。
「そうなんだ。大陸と台湾は国交がないから会うこともできないんだ・・」
「どうしてそうなってしまうのか・・自分は何ができるのだろうか・・」
このことが大きなきっかけとなって日本で武術交流を盛んにして文化交流がもっと良くなれば
先生のように他の皆さんも再会することができるかも知れない。
そう考えるようになったのです。
これは先生が他界された今でも頑張っています、以前2002年に上海に戻った時にかつての先生の住んでいたお家の辺りへ行ってみました。しかしもうビルが立ち並びまったく異なる場所になっていました。
そこはかつて上海北駅のあった辺りで「日本租界」のあった場所だったのです。
(先週に見た映画シャンハイでも出てきた場所でした・・)
徐老師が日本滞在の最期は大変でした、協会内で会員たちがクーデターを起こし協会自体を崩壊させてしまったのです。
徐老師は当時上海から来ていたお弟子さんの王金香老師と妹さんと三人で生活も大変になってしまいました。
私の給料も出なくなり、先生の元へとりあえずパンとおにぎりを4人分買って訪問したのが最期です。
私は「自分の給料もなくなってしまい、とりあえず今持っているお金で食事を買ってきました」と言い、
4人で一緒に食べました。
そこへ以前より顔見知りだった蘇東成先生が訪問して来てくれました。
徐老師は「成澤。お前も会ったことのある、この蘇先生がこれからの上海までの帰国の面倒を見てくださるから安心しろ。お前もこれから大変だろうから、すぐに他の仕事を探せ。また上海に来たら会おう、またな」といって後にしました。
その翌年にある人からの話で「徐老師はアメリカに長期で行ってしまったらしい・・」と聞きました。
それから数年して連絡が取れずにいて、日本に来ていた兄弟子の賈平さんに会うことがあって近況を聞いてみたら「知らないのか。徐老師はアメリカから帰ってきてから体調を崩してしまい、それが原因で他界した」と聞きました。
とても残念な思いでいっぱいになりました。
4年前の2007年の8月に1回目の海外人員のための中国武術段位認定と国際武術教練の試験があり、杭州に行きました。
これはその試験だけでなく競技大会にお嬢様の徐淑貞老師が来ることを聞いていたからです。
大会会場を見回したら、すぐに解りました。
休憩時間に先生に話しかけに行きました。
「成澤!ものすごい久しぶりじゃないか。1990年の北京アジア大会の時以来だな!」
武術家の先生はとにかく記憶が良いです。
私は「徐老師、今は北京との連携は止めました。2002年から上海と安徽省に戻りました」
「賈平に聞いている」
「今は横浜で自分が責任者となって徐文忠老師から教わったことを大事に普及活動をしています」と言いました。
「そうか、頑張っているんだな。嬉しいよ!また合肥に来て交流でもできたらいいな」と仰いました。
「そうだ、今回は渡辺さんも来ています、今呼んで連れて来ますね」といって渡辺さんも一緒に再会して歓談をしました。
先生はまた審判の仕事があるので、その後業務に戻りました。
最期のパーティーで会えるかな、と思ったら先生はすぐに帰ってしまいました。
(思い出せば徐先生はお酒を飲まなくて、男衆のたちの乾杯攻撃の酒+タバコが嫌いでした・・)
その凛々しい姿はお父様にそっくりでした。
今思うに、まだこれからの時間の中で、
私のできることはどれくらい何ができるのだろうか、といつも考えています。
特別展 孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本を見ることが出来て可能性をはっきりと認識ができたのはものすごく大きな学びの時間でした。
今年は辛亥革命から100年です。
これからの日本での普及を思うに本当の歴史的真実に沿って正しくやっていきたい、と思い 新たな決意を感じました。
空海と密教美術展を初日に見に来て今日は、特別展「孫文と梅屋庄吉100年前の中国と日本」を観覧してきました。
孫文と梅屋庄吉 特別展
清朝:大清帝国の末期から今現在にまで続く、日本と中国との深い結び付きの真実を知ることができました。
何故に日本では歴史的に東京・横浜と台湾・香港との提携が深いことや今迄に感じていた中国共産党・北京と距離を置く、ということも解りました。
長く、そして深く本場の中国武術界にいるといくつかの謎を感じることがあったのですが、今日はこのおかげでほぼ全部を解消することができました。
これから私の師のお話になります。
徐文忠老師は、私が今でもずっと尊敬し伝統武術とはなんたるかを16歳~19歳までの間に身を持って教わった本物の武術家です。
知る人は知るお嬢様は現在中国武術協会の重鎮、徐淑貞老師です。
(今年上海体育学院の教授でお世話になった範燕美先生の先生でもあります)
そして現代武術の師はそして現代武術の師は徐貞淑貞老師と楊承冰老師です。
徐文忠老師は江蘇省出身で国民党でかつての仕事は政府要人のボディガードをしていたそうです。
国共内戦で国民党は共産党に破れ、台湾へ行ったことはご存知だと思います。当時の徐老師のご兄弟の家族の皆さんはすべて台湾へ行ってしまい、
徐老師はお嬢様の徐淑貞老師のために単独上海に残りました。
私が徐文忠老師とお会いできたのは1985年に初めて上海に行き、ある方のご紹介があって徐老師から刀術(風雲刀)を学ぶことができました。
中国武術協会は当然中国共産党のお膝元の組織なので徐老師は左遷状態となっており居住環境も良いものではありませんでした。
そのお家で学んだ時に気付いたのですが各種武器が並ぶ上に孫文の写真が飾ってありました。
その翌年の春に日本へ来ることになり、日本で再び指導を受けることができました。
その後1986年に安徽省武術隊で初めてトレーニングを受けるために上海から入り、お家を訪ねたのでしたが留守でお会いできませんでした。
そして1987年から安徽省武術隊高級教練の楊承冰老師と一緒に2回目の来日で長期間滞在で先生方と毎日一緒に生活をしていました。
楊老師はいつも一人で自由が好きで練習以外の時間帯ではひょいひょいとあちこちにでかけていました。
私は徐老師の指導へいつも付き人として一緒にいて、毎日指導を受けながら、ちょっとした通訳を行っていました。
徐老師は2年間ほど滞在しておられました、時に中国語を学校で勉強していた時なのでこの頃から大分、直接先生のお話を理解できるようになってきました。
1987年の夏の時でした、朝いつものように先生のお部屋に行くとお客様が3人いらっしゃっていました。
「先生は部屋へ入って待っていろ」と言いました。
先生は「これは私の弟とその奥さんとその子」だと教えてくれました。
「実はな、弟と会うのは40年ぶりなんだ」
「私が日本に来ていることで会いに来てくれたんだ・・しかしもう互いにこんなに年をとってしまった」と言って、また弟様と奥様と一緒に抱き合っていました。
私はしばらくそこへいて「では先生、また午後にやって来ます」といって、その場をおいとましました。
私はそれからいろいろと考えていました。
「そうなんだ。大陸と台湾は国交がないから会うこともできないんだ・・」
「どうしてそうなってしまうのか・・自分は何ができるのだろうか・・」
このことが大きなきっかけとなって日本で武術交流を盛んにして文化交流がもっと良くなれば
先生のように他の皆さんも再会することができるかも知れない。
そう考えるようになったのです。
これは先生が他界された今でも頑張っています、以前2002年に上海に戻った時にかつての先生の住んでいたお家の辺りへ行ってみました。しかしもうビルが立ち並びまったく異なる場所になっていました。
そこはかつて上海北駅のあった辺りで「日本租界」のあった場所だったのです。
(先週に見た映画シャンハイでも出てきた場所でした・・)
徐老師が日本滞在の最期は大変でした、協会内で会員たちがクーデターを起こし協会自体を崩壊させてしまったのです。
徐老師は当時上海から来ていたお弟子さんの王金香老師と妹さんと三人で生活も大変になってしまいました。
私の給料も出なくなり、先生の元へとりあえずパンとおにぎりを4人分買って訪問したのが最期です。
私は「自分の給料もなくなってしまい、とりあえず今持っているお金で食事を買ってきました」と言い、
4人で一緒に食べました。
そこへ以前より顔見知りだった蘇東成先生が訪問して来てくれました。
徐老師は「成澤。お前も会ったことのある、この蘇先生がこれからの上海までの帰国の面倒を見てくださるから安心しろ。お前もこれから大変だろうから、すぐに他の仕事を探せ。また上海に来たら会おう、またな」といって後にしました。
その翌年にある人からの話で「徐老師はアメリカに長期で行ってしまったらしい・・」と聞きました。
それから数年して連絡が取れずにいて、日本に来ていた兄弟子の賈平さんに会うことがあって近況を聞いてみたら「知らないのか。徐老師はアメリカから帰ってきてから体調を崩してしまい、それが原因で他界した」と聞きました。
とても残念な思いでいっぱいになりました。
4年前の2007年の8月に1回目の海外人員のための中国武術段位認定と国際武術教練の試験があり、杭州に行きました。
これはその試験だけでなく競技大会にお嬢様の徐淑貞老師が来ることを聞いていたからです。
大会会場を見回したら、すぐに解りました。
休憩時間に先生に話しかけに行きました。
「成澤!ものすごい久しぶりじゃないか。1990年の北京アジア大会の時以来だな!」
武術家の先生はとにかく記憶が良いです。
私は「徐老師、今は北京との連携は止めました。2002年から上海と安徽省に戻りました」
「賈平に聞いている」
「今は横浜で自分が責任者となって徐文忠老師から教わったことを大事に普及活動をしています」と言いました。
「そうか、頑張っているんだな。嬉しいよ!また合肥に来て交流でもできたらいいな」と仰いました。
「そうだ、今回は渡辺さんも来ています、今呼んで連れて来ますね」といって渡辺さんも一緒に再会して歓談をしました。
先生はまた審判の仕事があるので、その後業務に戻りました。
最期のパーティーで会えるかな、と思ったら先生はすぐに帰ってしまいました。
(思い出せば徐先生はお酒を飲まなくて、男衆のたちの乾杯攻撃の酒+タバコが嫌いでした・・)
その凛々しい姿はお父様にそっくりでした。
今思うに、まだこれからの時間の中で、
私のできることはどれくらい何ができるのだろうか、といつも考えています。
特別展 孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本を見ることが出来て可能性をはっきりと認識ができたのはものすごく大きな学びの時間でした。
今年は辛亥革命から100年です。
これからの日本での普及を思うに本当の歴史的真実に沿って正しくやっていきたい、と思い 新たな決意を感じました。