時代は流れる、我々はまったく同じ時間を生きることはできません。
これからアメリカは債務危機に向かい、日本も同盟国ゆえに同じような責務を背負わされることにも国民としては覚悟しておくことも大事だと思います。
戦後、高度経済成長、バブル期、90年代のバブル崩壊。
ヒルズ族を生み出し、東京ミッドタウンが建った六本木界隈小泉政権時代の好景気時代・・わずか3年前の2008年秋のリーマンショック。
そして今・・
私は今40代前半。
今思うに、例えば今現在このように便利で物質的に恵まれた時代ではなく、
どちらかといえばまだのんびりと比較的平和で物にも不便な時代に育って良かったな、と思うことがあります。
私のうえの世代の50代、そして普通一般の40代はほんとうを言わない(言えない)ほんとうを聞けない(聞かない)時代だったと思います。
ほんとうを言わないから、ただ所得を他の人より得たいのと社会的地位が高いとされた不自然な中でもエリートコースと呼ばれた方向へ何ひとつ疑わず行くことができて、
ほんとうを聞かないから、その道を予め用意されたシナリオ、あるいはレールの上を行く事ができたのだと思います。
日本ではパーソナル・コンピューターの普及の前には暗記能力が重要とされた時代がありました。人間が「機械」のようであるのが欲しかった時代です。
マシーン人間はインプットされた情報や単語には反応が敏感な特性があります。
「スピード社会」といえば「アクセル」を踏んで、「スローライフ」といえば同じ人間達が「急ブレーキ」を踏んでから、何ともなかったの如く、
「自然の風に吹かれたい」とか言い出したり「アメリカン・ヨガ エクササイズブーム」に便乗して
本当の自分らしさを見つけた、なんて何を解かったのか
雑誌などに作られた流行にもまた乗せられていたりもします(3年後の未来予測はできていますか?)
今はPCが普及してITが活躍する現在、暗記力オンリーで来て想像力のない 「それらの人」は時代・時勢の流れから当然だんだんと世に求められなくなってきました。
それらは「ほんとう」が読めなかったからです。
(圧倒的多数から抜け出す方法、とか、リーダーシップとは何か、なんて本が世間でベストセラーになったりした時点で気付くべきです)
「機械のような人間」がリストラされて「人間らしい人間」の「生命力」が重宝されていく時代になっていくでしょう。
時代が変わるとはそういうことでもあり、必要が不必要となり、
不必要とされていた「個性」や「想像力」「独創性」そして実行力、勇気が日本では必要な時代になりました。
今は2011年、かつて10年~20年ほど前から「最もらしく言われていたこと」は今はもうほとんどが有り得ない。聞いていたことは今も存在していない。
無くなってしまったもの、居なくなってしまったもあるぐらいです。
あるいは、これから無くなっていってしまうもの。居なくなってしまうものにも留意が必要な時代です。そしてその流れがやってくるのも思うよりも速い。
それは「ほんとう」ではないこと、から実現していきました。所詮、願望や空想からくる大風呂敷の仮説でしかなかったのです。
80年~90年代は象徴的なものがたくさんありました。
映画やテレビも有意義で素晴らしいものが多かった。
艱難辛苦を経て、耐えて耐えて「守るべきもの」が描かれていました。
私は武術を学びながらも、思想哲学を深く勉強するようになりました。
影響を受けた映画やテレビ番組の原点は東洋思想や哲学だったことを今から20年前の東洋大学の苦学生だった頃に多くを知りました。
その頃、世間は確かに「言論の自由」はありました。しかしほんとうのことを言うと、ちょっとした人間関係でも同僚からも裏で密告されて、
後でそのことが理由で仕掛けられた罠に嵌められたり、バッシングというかたちで貶められるような風潮や傾向が多方面でありました。
1970年代が影響していたのです・・
正直に生きていくことが、苦難を背負わされた時代でもありました。
しかし大切なのは今でも貫き通せる気概を持つかどうかです。
ほんとうを知っている人たちは強いのです。
様々なかたちで相互にエールを送り合い、今この瞬間、今日でも継続しています。
今現在でもまだ、持ち上げては叩き落としを繰り返し、真実の隠蔽、
言論誘導や情報操作の名残りはまだ時折垣間見えますが、賢く気付く人たちは気付き、以前より時代・時勢はとても良くなっています。
(まったく身に関さない受難を不本意なかたちで背負わされたら、ブログでもツィッターでもすぐに発信できる時代です・・でもこれからの自分にはおそらく永遠にないだろう・・)
今のような時代だからこそ変わらずに、ほんとうを言い続けたい。そして聞きたい。
最近のリバイバルやカバーのブームを思うに、
ほんとうをきっと言いたいのだろう。
ほんとうをきっと聞きたいのだろう。
ここでいう「ほんとう」とは、「本当」「真実」「事実」「現実」
どれだろうか、きっと どれでもある。
これからアメリカは債務危機に向かい、日本も同盟国ゆえに同じような責務を背負わされることにも国民としては覚悟しておくことも大事だと思います。
戦後、高度経済成長、バブル期、90年代のバブル崩壊。
ヒルズ族を生み出し、東京ミッドタウンが建った六本木界隈小泉政権時代の好景気時代・・わずか3年前の2008年秋のリーマンショック。
そして今・・
私は今40代前半。
今思うに、例えば今現在このように便利で物質的に恵まれた時代ではなく、
どちらかといえばまだのんびりと比較的平和で物にも不便な時代に育って良かったな、と思うことがあります。
私のうえの世代の50代、そして普通一般の40代はほんとうを言わない(言えない)ほんとうを聞けない(聞かない)時代だったと思います。
ほんとうを言わないから、ただ所得を他の人より得たいのと社会的地位が高いとされた不自然な中でもエリートコースと呼ばれた方向へ何ひとつ疑わず行くことができて、
ほんとうを聞かないから、その道を予め用意されたシナリオ、あるいはレールの上を行く事ができたのだと思います。
日本ではパーソナル・コンピューターの普及の前には暗記能力が重要とされた時代がありました。人間が「機械」のようであるのが欲しかった時代です。
マシーン人間はインプットされた情報や単語には反応が敏感な特性があります。
「スピード社会」といえば「アクセル」を踏んで、「スローライフ」といえば同じ人間達が「急ブレーキ」を踏んでから、何ともなかったの如く、
「自然の風に吹かれたい」とか言い出したり「アメリカン・ヨガ エクササイズブーム」に便乗して
本当の自分らしさを見つけた、なんて何を解かったのか
雑誌などに作られた流行にもまた乗せられていたりもします(3年後の未来予測はできていますか?)
今はPCが普及してITが活躍する現在、暗記力オンリーで来て想像力のない 「それらの人」は時代・時勢の流れから当然だんだんと世に求められなくなってきました。
それらは「ほんとう」が読めなかったからです。
(圧倒的多数から抜け出す方法、とか、リーダーシップとは何か、なんて本が世間でベストセラーになったりした時点で気付くべきです)
「機械のような人間」がリストラされて「人間らしい人間」の「生命力」が重宝されていく時代になっていくでしょう。
時代が変わるとはそういうことでもあり、必要が不必要となり、
不必要とされていた「個性」や「想像力」「独創性」そして実行力、勇気が日本では必要な時代になりました。
今は2011年、かつて10年~20年ほど前から「最もらしく言われていたこと」は今はもうほとんどが有り得ない。聞いていたことは今も存在していない。
無くなってしまったもの、居なくなってしまったもあるぐらいです。
あるいは、これから無くなっていってしまうもの。居なくなってしまうものにも留意が必要な時代です。そしてその流れがやってくるのも思うよりも速い。
それは「ほんとう」ではないこと、から実現していきました。所詮、願望や空想からくる大風呂敷の仮説でしかなかったのです。
80年~90年代は象徴的なものがたくさんありました。
映画やテレビも有意義で素晴らしいものが多かった。
艱難辛苦を経て、耐えて耐えて「守るべきもの」が描かれていました。
私は武術を学びながらも、思想哲学を深く勉強するようになりました。
影響を受けた映画やテレビ番組の原点は東洋思想や哲学だったことを今から20年前の東洋大学の苦学生だった頃に多くを知りました。
その頃、世間は確かに「言論の自由」はありました。しかしほんとうのことを言うと、ちょっとした人間関係でも同僚からも裏で密告されて、
後でそのことが理由で仕掛けられた罠に嵌められたり、バッシングというかたちで貶められるような風潮や傾向が多方面でありました。
1970年代が影響していたのです・・
正直に生きていくことが、苦難を背負わされた時代でもありました。
しかし大切なのは今でも貫き通せる気概を持つかどうかです。
ほんとうを知っている人たちは強いのです。
様々なかたちで相互にエールを送り合い、今この瞬間、今日でも継続しています。
今現在でもまだ、持ち上げては叩き落としを繰り返し、真実の隠蔽、
言論誘導や情報操作の名残りはまだ時折垣間見えますが、賢く気付く人たちは気付き、以前より時代・時勢はとても良くなっています。
(まったく身に関さない受難を不本意なかたちで背負わされたら、ブログでもツィッターでもすぐに発信できる時代です・・でもこれからの自分にはおそらく永遠にないだろう・・)
今のような時代だからこそ変わらずに、ほんとうを言い続けたい。そして聞きたい。
最近のリバイバルやカバーのブームを思うに、
ほんとうをきっと言いたいのだろう。
ほんとうをきっと聞きたいのだろう。
ここでいう「ほんとう」とは、「本当」「真実」「事実」「現実」
どれだろうか、きっと どれでもある。