10年ひと昔、とよくいいます。

10年前、20年前、30年前・・いろいろとよく思い出します。

自分が今から30年前つまりは1981年のことは今でもよく憶えています。

小学校を卒業して6年間続けた剣道と水泳を辞めました。

その頃は「中国武術」として正しく指導している場所は全くなくて「中国拳法」とよばれたジャンルを独学でそういった教本を見ては練習をしていました。

それらの要因としては今でも続く、もっと強烈な日本と中国の間の政治問題(あるいは香港、台湾と中国大陸)の深い溝が横たわっていたからです・・

兄が空手を既に一年間学んでいたので基本を教わっていつも庭先の練習に付き合って一緒にしていました。

私が小学校低学年の時代で流行っていたのはちょうどブルース・リーブームの頃で倉田保昭さんの活躍していた「Gメン75」の香港カラテシリーズをよく見ていました。

小学校高学年でジャッキー・チェンの酔拳がヒットしていて蛇拳などの映画をテレビで見ました。

体育は生まれつき得意な項目でした。あらゆる「スポーツ」をやらされても生まれながらの負けん気でいつも成績は良かったです。

小中高、予備校、大学まで体育以外では国語と社会だけは好きでがんばったので成績は良かったです。しかし数学だけはとにかく考え方そのものが大嫌いだったのでとにかくすべてにまったく××でした・・

剣道の練習でみんなが影響を受けて更衣室でみんなが勝手にカンフー系の技を自主練習をしていて剣道の先生に「うるさいぞ!お前ら~。そんな力があるなら今すぐ稽古しろ。稽古!」なんて怒鳴られていました。

確かにそれぐらいの大きなインパクトがあった時代でした。

中学校に入ってから私の時代の世代では「あの、望まれぬ強制的な環境」例えれば尾崎豊さんの卒業という歌に出てきた同じような環境にいました。

筋の通らぬ生活指導がとても嫌いでした。とにかく腑に落ちない毎日でした。私の中学校でもとても荒れていました。

「不良」とレッテルを貼られていた先輩も実は本当は違って素直で優しくユーモアのある人たちが多かったです。

逆に「エリート」なんて言われていた人間たちは先生の前とか作文なんかではとても見事な綺麗ごとばかりで通っていて、しかし裏では悪質なイジメを起こしていたりする張本人だったりして根の暗い人ばかりでトゲトゲしていて嫌いでした。

日本国内でもずっと「カンフーブーム」が大きく長くその時代を続きました。思い出せばその後1986年ぐらいをピークにゆっくり衰退して、後にプロレス、テコンドー、格闘技、サッカーブームと移行していきました。

当時、我が家は両親と兄弟姉妹の4人、計6人の家族でたまにやって来る愛知からの祖母が+で生活は裕福なものではなかった頃です。

兄も空手よりも中国武術に魅せられていて2人で東京都内の様々な道場を訪ね歩きました。当時は体験練習ということはできず、見学のみでした。

我々は既にそれなりに体が利き、練習内容をメモして自分たちで練習を行っていました。

興味を持った悪友に指導して技の用法をかける実験台になってもらったりしました。

実は当時は内容の割には?!?とにかく月謝がひどく高かったのでした。両親に相談したらお前たちは剣道と水泳を辞めて、

自分たちがやりたいというものを選んだのだ。「自分たちが持つお金の中でやりくりしなさい!お金は出さない!」といわれました。

二人で諦めきれず、兄にはふとアイデアがあったらしく二人で稼ごう、と言い出しました。

「いいよ!」その後兄は何処から情報を仕入れてきたのか新聞配達をやらせてくれるぞ、と見つけてきて、次の週から始めました。

結局そのまま私は中学1年生から高校3年生までの6年間続けました。

二人で稼いだ給料をもらった時はとにかく嬉しかったです。それから兄といろいろなところで最初は太極拳から一緒に練習をし始めました。

最初に正式に所属したのは東京都日中友好協会太極拳委員会という組織で指導を受けました。

とにかく一生懸命勉強し練習しました。それから1983年に北京市武術協会から招聘された謝志圭老師に初級長拳一二三路を直接教えて頂きました。

1984年の大阪で行われた第一回全日本太極拳・中国武術表演大会に一緒に東京代表で出て、後に一緒に全日本太極拳協会へ移籍しましたが練習がきつく辞めてしまいました。

自分はそのまま日本武道館にあった全日本太極拳協会で日曜日に恩師である杜進老師に出会えて学び、後に1985年には徐文忠師爺、張品元老師、一緒に当時訪日したばかりの馮正宝老師に指導をして頂きました。

そのちょっと前には陳家溝四傑の来日があり、王西安老師、朱天才老師、陳小旺老師、陳小雷老師の太極拳の講習会に武術選手の訓練の時間の合間に勉強をしたりしました。

(陳式太極拳では後に、尊敬する姉弟子が詳細を手ほどきして教授してくださいました、今でも深く感謝しております)

とにかくいい思い出ばかりです。

1985年の春には今は名古屋にいる丁傑さん、少林寺2の李玉忠くん。劉善民老師、橋標老師にも短い間ですがアドバイスを頂きました。

その後は私にとって生涯の恩師である上海体育学院教授の邱丕相老師、安徽省武術隊高級教練の楊承冰老師。

徐文忠老師のお嬢様である、徐淑貞老師。通臂拳を教わった瀋陽体育学院の穆秀傑老師。

武術家はこうでなくてはならぬとも教わった偉大なる雲南省の武術名家 何福生老師。

それからも20年前の出来事、10年前の出来事。

印象的ないくつの思い出は時折、日々の中で色鮮やかに思い出されます。

私はとにかくこの30年間、一瞬たりとも忘れることなく武術のことを純粋に想ってきました。実践につぐ実践で今日に至りました。

この今年の5月に上海体育学院(上海体育大学)に教え子を多く連れて一緒に研修を終えて、これからの外事弁公室の皆さんに引継ぎをしました。

かつて安徽省武術隊で同じ体育館で練習した仲間が教授になり、お世話になった先輩の皆さんたちが高級教練として出世し活躍しています。

時間の流れを想いました・・


そして帰国後、5~6月はとにかく多くの神奈川県内にある寺社を訪れました。

ある名門の古刹の山門で、ふと「あなたは、これからもう日本の祖国のために、祖国の民のためにやりなさい」

そんな声がしたのか、私の中で起こったのか、その「想い」で頭がいっぱいになりました。

振り返れば、「あの頃」の少年だった自分がいて、

「こういう先生がいてくれればいいのに・・」

そう想った自分の「想い」の声が今の自分を創り上げたことに改めて気付きました。

かつての自分が、こうあって欲しい未来のために。

そして今もまだ同じくかつての「自分」のような願いを持つ皆さんの未来を良くしていく為に役立ちたい、

未来ある人々のために未来を創っている。

いつもただ、そう想っているのです・・