以前より、気付いている人は気付いていると思うのですが、世間で何気なくマスコミも誘導してくる「やり方」ですが、
予めに「ある誘導する目的地」へ、世相を煽るようにしたり、問題提起をしてはそちらへ持っていこうとする「やり方」には注意が必要です。
それは気付かないうちに「嵌められる」からです、私は以前から、これには気付いていて、その手には乗らないようにしていたことが多くの面で良かったと思います。
その成果で遠回りに見えても、確実に目指してきたものに辿りつけたと感じています。
中国武術運動、というものは兵法や思想哲学から「武」の概念の形成から始まり、多くの武器術、多くの拳術、護身術、攻撃方法、防衛方法、
そして養生を包括してこの2000年ほどの歴史的変遷を経て完成している分野です。
そしてそれは個人、二人~三人を組んでのもの、集団での功法としても訓練手段としても確立できています。
中国大陸は北から南、そして東から西までも広い範囲にあり、多くの民族があります。したがって衣食住の違いから文化風土も異なり、
武術としての精神性として考え方の規範は道教、儒教、仏教、回教:イスラム教などの思想が根本に存在しています。
体格や運動方法もそれぞれの地にあった相応しいものへと自然になっていきます。
例えば、北京より北部にはモンゴル民族が多く、シュワイジャオという服をきたレスリングにも似た相撲が盛んになり、所謂「力士」が多くなります。
東北部では冬は長く厳冬になるので服を着込んで行える拳術になっていき、四季の安定した地域では伸びやかで体を大きく使う「体育要素」も強くなります。
南方では夏が長く高温多湿なので、動き回るというよりは、落ち着いて繊細に体を意識するもの、あるいは民族紛争や治安に問題のあるところでは護身術的要素が強くなります。
随って中国武術では一個人の重要にしている個性を互いに尊重するところから、交流を通じ相互に短所を補い合いながら長所を伸ばし、
長い年月をかけて古人の智慧と工夫を経てこの武術世界が構築され今日に至っています。
日本国内に目を向けてみると、
この広い分野を個人的嗜好から狭い解釈で勝手に包括しているような状況がよく見られます。
それは日本での教育でも「椅子取りゲーム」のような排他・排斥的意識を植え付けられてしまい、
そこからの優越感でしか考えられないような歪んだ精神意識から脱却できなくなってしまった人間が少なくないことも影響していると思います。
中国は日本の26倍の国土で人口が戸籍があるのでも13億5千万人います。
例えれば、東北から北京、華中、華南地方などに加えて回族などの宗教的民族を含む中華料理の広い世界の中があって、
ある一部の人たちが声高に拉麺や餃子と呼ばれる料理のジャンルだけが最高と、拡大解釈し過ぎて、
自分たちの嗜好を「王道」とか言っているように感じています。
個人の嗜好はとても大事で尊重されるべきですが、それがさも事実調査が足りないでも
全体的に正しいような論は的を射ていないものが多い傾向にあります。
一流派を形成し、その派閥の中では行う事は構いませんが、越境してきて全体には不適切なものだと思います。
私は今迄に多くのスポーツを経験しました。武道でも剣道と柔道を学びました。
日本の武技と精神性は素晴らしいものでその武道感覚は重要視しています。
その他にも空手や少林寺拳法、合気道などそれぞれに素晴らしい日本武道はたくさんあります。
最近思うに、以前に格闘技とかプロレスというジャンルが有名にはなりましたが、発想としてはアメリカ発の比較的奔放で面白い感性だと思います。
私も以前に一時期は興味を持って見ていたこともありました。
しかし属する分野の大きさや歴史の違いから来る属する精神文化、運動文化の特徴の面においてジャンルは全く別のものであるということをしっかり意識して気付いておくべきと感じます。
「誰が一番強いか、勝負しよう」というコンセプトがありました。
とても良いインパクトのある宣伝文句:キャッチコピーだったと思います。
そして宣伝ではプロパガンダのごとくテレビや雑誌を利用しては、でかい声でアピールしたりして衆目を集めて有名になれたことは、
単に運営組織がマスコミや芸能人などに多くのギャランティー金銭が払えたことを行ったので、認知を得られるペースが早かったように感じています。
スタイルをよく見て考えれば、憎くもない敵:相手に技を仕掛けて、痛い目に合わせて戦闘意識を奪った方が勝ち、という気付けば
「理由をつけて、他国へ侵入して、力でねじ伏せてすべてをもらう」という「20世紀の戦争」的な思考感覚を含んでいます。
今はアメリカのプロレス界ではストーリー性のある、所謂武術では対練に相当するようになったと思います。日本のプロレスもその傾向に向かっていると想います。
その他の格闘技界でもそれぞれの世界で自分たちのやり方を大事にしてまとまってきたように感じます。
時間的に見て振り返ってみれば、
やっぱり中国武術界は様々な方法全体を包括して完成できており、私達は一瞬たりとも迷うことなく自分たちのスタイルを継続してきて本当に良かったと思うことがよくあります。
世の人は誰しも仕事をして報酬を得ています。
その仕事に格闘技やプロレスなどでも始めのうちは「武道」に対して、もっとアピールしたかった、ということからいくつかコンセプトが生まれましたが、
最終的には安定した収入を求めて、生涯を有意義に生きていくことを尊重して考えれば
互いの生命力を脅かすようなアクションは不自然になっていくことにようやく気付いたように思います。
日本での中国武術の普及は、これからだと感じています。
深く知れば知るほど、その「歴史的強み」を実感する人々が多くなると思います。
「武技」によって、護身術としての技を見に付け、「武戯」として、自身の心身とのコミュニケーション、そして他人とのコミュニケーションを図る尊さ。
「武舞」として、技芸を行うことが「美しき舞い」に昇華できることはどのジャンルの人間としての憧れでもあると思います。
最初に最高の道の入り口に立ち、その道をひたすら純粋に一途に歩いてきて
今までにも多くの実りがありました。
今や人生80年の時代。日本人は男女平均で世界一の長寿社会です。
私にとっての本当の強さとは、多くが知っているように健全な「心身の丈夫さ」です。
誰でも楽しくいつまでも毎日を活き活きと過ごし、心を広く協力し合って
励まし合いながら共に安心して生きていける社会を作っていくことだと考えています。
予めに「ある誘導する目的地」へ、世相を煽るようにしたり、問題提起をしてはそちらへ持っていこうとする「やり方」には注意が必要です。
それは気付かないうちに「嵌められる」からです、私は以前から、これには気付いていて、その手には乗らないようにしていたことが多くの面で良かったと思います。
その成果で遠回りに見えても、確実に目指してきたものに辿りつけたと感じています。
中国武術運動、というものは兵法や思想哲学から「武」の概念の形成から始まり、多くの武器術、多くの拳術、護身術、攻撃方法、防衛方法、
そして養生を包括してこの2000年ほどの歴史的変遷を経て完成している分野です。
そしてそれは個人、二人~三人を組んでのもの、集団での功法としても訓練手段としても確立できています。
中国大陸は北から南、そして東から西までも広い範囲にあり、多くの民族があります。したがって衣食住の違いから文化風土も異なり、
武術としての精神性として考え方の規範は道教、儒教、仏教、回教:イスラム教などの思想が根本に存在しています。
体格や運動方法もそれぞれの地にあった相応しいものへと自然になっていきます。
例えば、北京より北部にはモンゴル民族が多く、シュワイジャオという服をきたレスリングにも似た相撲が盛んになり、所謂「力士」が多くなります。
東北部では冬は長く厳冬になるので服を着込んで行える拳術になっていき、四季の安定した地域では伸びやかで体を大きく使う「体育要素」も強くなります。
南方では夏が長く高温多湿なので、動き回るというよりは、落ち着いて繊細に体を意識するもの、あるいは民族紛争や治安に問題のあるところでは護身術的要素が強くなります。
随って中国武術では一個人の重要にしている個性を互いに尊重するところから、交流を通じ相互に短所を補い合いながら長所を伸ばし、
長い年月をかけて古人の智慧と工夫を経てこの武術世界が構築され今日に至っています。
日本国内に目を向けてみると、
この広い分野を個人的嗜好から狭い解釈で勝手に包括しているような状況がよく見られます。
それは日本での教育でも「椅子取りゲーム」のような排他・排斥的意識を植え付けられてしまい、
そこからの優越感でしか考えられないような歪んだ精神意識から脱却できなくなってしまった人間が少なくないことも影響していると思います。
中国は日本の26倍の国土で人口が戸籍があるのでも13億5千万人います。
例えれば、東北から北京、華中、華南地方などに加えて回族などの宗教的民族を含む中華料理の広い世界の中があって、
ある一部の人たちが声高に拉麺や餃子と呼ばれる料理のジャンルだけが最高と、拡大解釈し過ぎて、
自分たちの嗜好を「王道」とか言っているように感じています。
個人の嗜好はとても大事で尊重されるべきですが、それがさも事実調査が足りないでも
全体的に正しいような論は的を射ていないものが多い傾向にあります。
一流派を形成し、その派閥の中では行う事は構いませんが、越境してきて全体には不適切なものだと思います。
私は今迄に多くのスポーツを経験しました。武道でも剣道と柔道を学びました。
日本の武技と精神性は素晴らしいものでその武道感覚は重要視しています。
その他にも空手や少林寺拳法、合気道などそれぞれに素晴らしい日本武道はたくさんあります。
最近思うに、以前に格闘技とかプロレスというジャンルが有名にはなりましたが、発想としてはアメリカ発の比較的奔放で面白い感性だと思います。
私も以前に一時期は興味を持って見ていたこともありました。
しかし属する分野の大きさや歴史の違いから来る属する精神文化、運動文化の特徴の面においてジャンルは全く別のものであるということをしっかり意識して気付いておくべきと感じます。
「誰が一番強いか、勝負しよう」というコンセプトがありました。
とても良いインパクトのある宣伝文句:キャッチコピーだったと思います。
そして宣伝ではプロパガンダのごとくテレビや雑誌を利用しては、でかい声でアピールしたりして衆目を集めて有名になれたことは、
単に運営組織がマスコミや芸能人などに多くのギャランティー金銭が払えたことを行ったので、認知を得られるペースが早かったように感じています。
スタイルをよく見て考えれば、憎くもない敵:相手に技を仕掛けて、痛い目に合わせて戦闘意識を奪った方が勝ち、という気付けば
「理由をつけて、他国へ侵入して、力でねじ伏せてすべてをもらう」という「20世紀の戦争」的な思考感覚を含んでいます。
今はアメリカのプロレス界ではストーリー性のある、所謂武術では対練に相当するようになったと思います。日本のプロレスもその傾向に向かっていると想います。
その他の格闘技界でもそれぞれの世界で自分たちのやり方を大事にしてまとまってきたように感じます。
時間的に見て振り返ってみれば、
やっぱり中国武術界は様々な方法全体を包括して完成できており、私達は一瞬たりとも迷うことなく自分たちのスタイルを継続してきて本当に良かったと思うことがよくあります。
世の人は誰しも仕事をして報酬を得ています。
その仕事に格闘技やプロレスなどでも始めのうちは「武道」に対して、もっとアピールしたかった、ということからいくつかコンセプトが生まれましたが、
最終的には安定した収入を求めて、生涯を有意義に生きていくことを尊重して考えれば
互いの生命力を脅かすようなアクションは不自然になっていくことにようやく気付いたように思います。
日本での中国武術の普及は、これからだと感じています。
深く知れば知るほど、その「歴史的強み」を実感する人々が多くなると思います。
「武技」によって、護身術としての技を見に付け、「武戯」として、自身の心身とのコミュニケーション、そして他人とのコミュニケーションを図る尊さ。
「武舞」として、技芸を行うことが「美しき舞い」に昇華できることはどのジャンルの人間としての憧れでもあると思います。
最初に最高の道の入り口に立ち、その道をひたすら純粋に一途に歩いてきて
今までにも多くの実りがありました。
今や人生80年の時代。日本人は男女平均で世界一の長寿社会です。
私にとっての本当の強さとは、多くが知っているように健全な「心身の丈夫さ」です。
誰でも楽しくいつまでも毎日を活き活きと過ごし、心を広く協力し合って
励まし合いながら共に安心して生きていける社会を作っていくことだと考えています。