今日は夕方から来月から地域での活動日程調整会議があるので、それまでは自由な時間があったのでその時間を活用してちょっとした寺社めぐりに行ってきました。
私の姓の成澤の家の産土神は山形県蔵王の成澤神社の氏子であり、そこから深谷へと歴代で移ってきた武家の末裔で父の代で東京に出て来てから私が生まれました。
思い出せば父と母は寺社めぐりが好きで、まだ自分が小さかった頃いつも兄とを一緒に休みの日には連れていってくれました。
兄は車に興味を持ち、寺社ではとてもつまらなそうにしていましたが、私は自然豊かな水と緑に囲まれている関東での寺社めぐりは大好きになりました。
今でもその影響は残っているのだと思います。
東京は狛江という町に住み、近くには伊豆美神社という神社があり、とても小さな頃からそこの境内でいつも遊んでいました。秋のお祭りはとても風情があってよかったです。
中学生になり学校の近くには泉龍寺というお寺があり学校帰りにはその池の前でよく語り合う場所になっていました。
今は亡き父は祖母と共に埼玉県深谷市の真言宗のお寺で眠っています、その為だったのか真言宗のお寺へよく連れて行ってくれました。
多摩では高幡不動尊や高尾山の薬王院へ行きました、その他に川崎大師や日蓮宗の本門寺にもよく行きました。
思えば父はそういう意味ではかなり早い時点で今でいう信仰オタクだったのかも知れません。
この時期によく行くのは鎌倉ですが、
今日はいつも仕事では電車で通り過ぎる弘明寺へと参詣し、そこから横浜の総鎮守とされ、「関東のお伊勢さん」として知られている、伊勢山皇大神宮へお参りをしました。


(近いうちに機会があれば熱田神宮や伊勢神宮、高野山へ行きたいと最近よく思います。かつて中学の修学旅行では京都・奈良、高校では四国金比羅山と広島に行けて本当によかったと思います)


そしてその後すぐ近くには成田山の横浜分院があり、参詣したら東北関東大震災の祈願のための護摩焚きを行うということで参列をしました。
とても素晴らしい聖なる護摩焚きに感動しました。

私が思うに願いをする、祈るということは利他の想いからです。神社にはいつも鏡が添えられています。
「願い」や「祈り」には「映った自分自身はどうですか」というのだといつも考えています。
「願いが届かない」というよりは
「できる範囲の中で自分自身のできることをやりましたか」「心身を健全にしていますか」
ということにも関連していると思います。
明治新政府により日本は欧米化へ意識を向けた国づくりのために出された神仏分離令からしばらくたったためか、
我々の世代は所謂「信仰」というものに距離を置かされることが多々あったようです。
それは世界の信仰には多くあり、ユダヤ教をはじめとする聖書を教典とするキリスト教、イスラム教。その他にもアジアではブラーフマン:バラモン教、ヒンズー教があり、
釈迦如来の仏教、中国でも道家思想、後の道教。そして孔子、孟子の儒教があります。
これらはすべて中国武術を語るうえでの「武徳」に関して結びついているものです。
(2世紀の成立の華侘の五禽戯は同郷の老子、荘子の道家思想、少林寺は仏教、武当太極拳の道教、人間関係での規範として取り入れられてきた儒教)
近世~近代でも派生された新たな信仰が日本でもかなり多くあります。
八百万の神々は本当に8000、000ぐらいあるのかも知れません。
私の信条では人は誰でも、精神・思想哲学においてでは相互不可侵を基本原則として、
相互の心身の尊厳を大事にするということで責任をしっかりと持てる方々は自由だと思います。
私は東洋大学で学んだので、一般教養の中で宗教学を学びました。思うと世間一般の人達が正しく学ぶ機会が少ないことゆえに、
よく敬遠されがちな「世界の宗教」「信仰とは何か」ということを思想哲学として深く真剣に学べたことがあったのでとてもよい勉強になりました。
しかしこれは今になってでも深化して続いています。
私が思うに、大体の父の世代の現在70~80歳の皆様は戦前生まれで原爆を落とされてから終戦、戦後の混乱を知り、高度経済成長バブル時代を経て、東西冷戦、歌でも東京砂漠というのがありましたが、
様々な政治家、財界人たちの拝金主義が横行した時代では、物質的にはどんどんと恵まれてはいくのでしたが出世のために「人」「物」「金」を求めに求め、
もっと大きなものが利権などのチャンスを奪い奪われ合い「心」は荒廃しやすく政治も何も信じられない時代だったのだと思います。
それに合わせて何か超常現象のようなパフォーマンスやイリュージョンという見事なテクニックがたくさん出てきました。
太極拳や気功でも神秘主義を謳ったりして世に目立とうとするようなものがたくさん まことしやかに言われ出ていく人もいた時代です。
きっとそんな中で何かを越えた力を持つ世界に人は憧れたのでしょう。
時間が経つと何が何だったのかは、ほとんど全てが解っていくものです。
私は意外に今でもそうですが素朴に「ありのまま」を見ています。
私は思うに、生まれる遥か前の先代から日本人として生きていくルーツでは古事記や日本書紀にある神社神道に則っており、そして亡き後は仏として生きて行く。
ずっとそのままの神仏合習として千数百年続く祖先への畏敬を心で大事にしています。
日本神話、飛鳥時代以降の大和の国の信仰としてきた日本仏教。
そして武士道精神に取り入れられた中国の儒教。私の主となっている武術思想においてでは易経と道家思想。
そして神道にも関連のある道教やヒンズー教、アブラハムの伝承の聖書からも勉強しています。
そして国際人であり、現代人である、という時空を意識して今現在の世界の世相の多くを常に学び研究して考えています。
何故なら世界中の国際社会と付き合っていくということは本当に真剣に考えていかなければならないことを政治家を含む多くの日本人たちは知らな過ぎるように思っています。
世界の信仰の考え方や思想・哲学を知らない、学んだことがない、というのは時と場合によっては「許されない行動」を
それを知らずにでも言ったり、やってしまうことは本当に相手にとって時と場合によっては失礼極まりがなく受け取られ、
後に国家間でも取り返しのつかない結果を伴うことへ繋がるということを知らない政治家とか財界人だけでなく、そして我々普通一般人は気付かなくてはならないことがあります。
今現代の特に若い世代の皆さんたちは、
日々の生活習慣にて深みのない浅薄な 面白おかしさを意識して過ごすことに慣れてしまい、あまり自分の過去やルーツとかに興味を持たなくなった風習の人たちも多いのかも知れません。
しかしながら今現在の現代日本人たちの多くは歴史に洗練されて受け継がれた力強い思想精神哲学を身に付けてはなく、確固たる信念を持つという人も少なく、
ただマスメディアの情報に振り回され翻弄されていることが多いのに気付かず、常に慢性的な懸念や心配を持たれる方々が多くなっているように私からは見える気がします。
魂は心を磨き、洗練し精進することを怠ることなく続けに続けて強くなるものだと思います。
それに世間にはまた新たな不安を煽っている雰囲気が出てきているように思います。
気をつけて頂きたいな、とよく感じるのは「世間」にはもういつも身近にたくさんの洗脳行為があるということに気付いて欲しいです。
テレビコマーシャルというプチ洗脳から、バラエティー番組などのおふざけの慣例化から、
評論家たちの「あっているかどうかも怪しいのだが正論らしい理論」
「震災時のコメント」「政党・政治家たちのメッセージ」
「オレオレ詐欺」ありとあらゆる理不尽な「キャッチセールス」
たくさん、たくさんあります。
何気なく使う「洗脳」という言葉ですが「洗われる脳」言葉通りなら「洗われれば」良いのですが、時と場合には作られた「幻想」や「空想」に浸らされ酔い続け、
そこからは分別が自身、あるいは強すぎれば集団組織でもできなくなってしまい、
結果としては時間、労力、経済負担が大きくなるだけで報われない。
そんなものも世にはたくさんあります。
それぞれの精神は自由ですが、後に止まる木もなく羽を休めることなく彷徨う鳥のようにならず、
どうぞ、心を強く元気に過ごして欲しいと願って、そして祈っております。
私の姓の成澤の家の産土神は山形県蔵王の成澤神社の氏子であり、そこから深谷へと歴代で移ってきた武家の末裔で父の代で東京に出て来てから私が生まれました。
思い出せば父と母は寺社めぐりが好きで、まだ自分が小さかった頃いつも兄とを一緒に休みの日には連れていってくれました。
兄は車に興味を持ち、寺社ではとてもつまらなそうにしていましたが、私は自然豊かな水と緑に囲まれている関東での寺社めぐりは大好きになりました。
今でもその影響は残っているのだと思います。
東京は狛江という町に住み、近くには伊豆美神社という神社があり、とても小さな頃からそこの境内でいつも遊んでいました。秋のお祭りはとても風情があってよかったです。
中学生になり学校の近くには泉龍寺というお寺があり学校帰りにはその池の前でよく語り合う場所になっていました。
今は亡き父は祖母と共に埼玉県深谷市の真言宗のお寺で眠っています、その為だったのか真言宗のお寺へよく連れて行ってくれました。
多摩では高幡不動尊や高尾山の薬王院へ行きました、その他に川崎大師や日蓮宗の本門寺にもよく行きました。
思えば父はそういう意味ではかなり早い時点で今でいう信仰オタクだったのかも知れません。
この時期によく行くのは鎌倉ですが、
今日はいつも仕事では電車で通り過ぎる弘明寺へと参詣し、そこから横浜の総鎮守とされ、「関東のお伊勢さん」として知られている、伊勢山皇大神宮へお参りをしました。


(近いうちに機会があれば熱田神宮や伊勢神宮、高野山へ行きたいと最近よく思います。かつて中学の修学旅行では京都・奈良、高校では四国金比羅山と広島に行けて本当によかったと思います)


そしてその後すぐ近くには成田山の横浜分院があり、参詣したら東北関東大震災の祈願のための護摩焚きを行うということで参列をしました。
とても素晴らしい聖なる護摩焚きに感動しました。

私が思うに願いをする、祈るということは利他の想いからです。神社にはいつも鏡が添えられています。
「願い」や「祈り」には「映った自分自身はどうですか」というのだといつも考えています。
「願いが届かない」というよりは
「できる範囲の中で自分自身のできることをやりましたか」「心身を健全にしていますか」
ということにも関連していると思います。
明治新政府により日本は欧米化へ意識を向けた国づくりのために出された神仏分離令からしばらくたったためか、
我々の世代は所謂「信仰」というものに距離を置かされることが多々あったようです。
それは世界の信仰には多くあり、ユダヤ教をはじめとする聖書を教典とするキリスト教、イスラム教。その他にもアジアではブラーフマン:バラモン教、ヒンズー教があり、
釈迦如来の仏教、中国でも道家思想、後の道教。そして孔子、孟子の儒教があります。
これらはすべて中国武術を語るうえでの「武徳」に関して結びついているものです。
(2世紀の成立の華侘の五禽戯は同郷の老子、荘子の道家思想、少林寺は仏教、武当太極拳の道教、人間関係での規範として取り入れられてきた儒教)
近世~近代でも派生された新たな信仰が日本でもかなり多くあります。
八百万の神々は本当に8000、000ぐらいあるのかも知れません。
私の信条では人は誰でも、精神・思想哲学においてでは相互不可侵を基本原則として、
相互の心身の尊厳を大事にするということで責任をしっかりと持てる方々は自由だと思います。
私は東洋大学で学んだので、一般教養の中で宗教学を学びました。思うと世間一般の人達が正しく学ぶ機会が少ないことゆえに、
よく敬遠されがちな「世界の宗教」「信仰とは何か」ということを思想哲学として深く真剣に学べたことがあったのでとてもよい勉強になりました。
しかしこれは今になってでも深化して続いています。
私が思うに、大体の父の世代の現在70~80歳の皆様は戦前生まれで原爆を落とされてから終戦、戦後の混乱を知り、高度経済成長バブル時代を経て、東西冷戦、歌でも東京砂漠というのがありましたが、
様々な政治家、財界人たちの拝金主義が横行した時代では、物質的にはどんどんと恵まれてはいくのでしたが出世のために「人」「物」「金」を求めに求め、
もっと大きなものが利権などのチャンスを奪い奪われ合い「心」は荒廃しやすく政治も何も信じられない時代だったのだと思います。
それに合わせて何か超常現象のようなパフォーマンスやイリュージョンという見事なテクニックがたくさん出てきました。
太極拳や気功でも神秘主義を謳ったりして世に目立とうとするようなものがたくさん まことしやかに言われ出ていく人もいた時代です。
きっとそんな中で何かを越えた力を持つ世界に人は憧れたのでしょう。
時間が経つと何が何だったのかは、ほとんど全てが解っていくものです。
私は意外に今でもそうですが素朴に「ありのまま」を見ています。
私は思うに、生まれる遥か前の先代から日本人として生きていくルーツでは古事記や日本書紀にある神社神道に則っており、そして亡き後は仏として生きて行く。
ずっとそのままの神仏合習として千数百年続く祖先への畏敬を心で大事にしています。
日本神話、飛鳥時代以降の大和の国の信仰としてきた日本仏教。
そして武士道精神に取り入れられた中国の儒教。私の主となっている武術思想においてでは易経と道家思想。
そして神道にも関連のある道教やヒンズー教、アブラハムの伝承の聖書からも勉強しています。
そして国際人であり、現代人である、という時空を意識して今現在の世界の世相の多くを常に学び研究して考えています。
何故なら世界中の国際社会と付き合っていくということは本当に真剣に考えていかなければならないことを政治家を含む多くの日本人たちは知らな過ぎるように思っています。
世界の信仰の考え方や思想・哲学を知らない、学んだことがない、というのは時と場合によっては「許されない行動」を
それを知らずにでも言ったり、やってしまうことは本当に相手にとって時と場合によっては失礼極まりがなく受け取られ、
後に国家間でも取り返しのつかない結果を伴うことへ繋がるということを知らない政治家とか財界人だけでなく、そして我々普通一般人は気付かなくてはならないことがあります。
今現代の特に若い世代の皆さんたちは、
日々の生活習慣にて深みのない浅薄な 面白おかしさを意識して過ごすことに慣れてしまい、あまり自分の過去やルーツとかに興味を持たなくなった風習の人たちも多いのかも知れません。
しかしながら今現在の現代日本人たちの多くは歴史に洗練されて受け継がれた力強い思想精神哲学を身に付けてはなく、確固たる信念を持つという人も少なく、
ただマスメディアの情報に振り回され翻弄されていることが多いのに気付かず、常に慢性的な懸念や心配を持たれる方々が多くなっているように私からは見える気がします。
魂は心を磨き、洗練し精進することを怠ることなく続けに続けて強くなるものだと思います。
それに世間にはまた新たな不安を煽っている雰囲気が出てきているように思います。
気をつけて頂きたいな、とよく感じるのは「世間」にはもういつも身近にたくさんの洗脳行為があるということに気付いて欲しいです。
テレビコマーシャルというプチ洗脳から、バラエティー番組などのおふざけの慣例化から、
評論家たちの「あっているかどうかも怪しいのだが正論らしい理論」
「震災時のコメント」「政党・政治家たちのメッセージ」
「オレオレ詐欺」ありとあらゆる理不尽な「キャッチセールス」
たくさん、たくさんあります。
何気なく使う「洗脳」という言葉ですが「洗われる脳」言葉通りなら「洗われれば」良いのですが、時と場合には作られた「幻想」や「空想」に浸らされ酔い続け、
そこからは分別が自身、あるいは強すぎれば集団組織でもできなくなってしまい、
結果としては時間、労力、経済負担が大きくなるだけで報われない。
そんなものも世にはたくさんあります。
それぞれの精神は自由ですが、後に止まる木もなく羽を休めることなく彷徨う鳥のようにならず、
どうぞ、心を強く元気に過ごして欲しいと願って、そして祈っております。