私は時々何者なのだろうか、と想うことがしばしばありました。

特にこの震災があってからは交感神経がやたらと活性化していくことも手伝い、

いろいろと思いつくことがたくさんありました。

~深谷にて 2012年秋~


ふと今日は想うことがあり、調べものをしていたらある情報が出てきたのです・・


今から6年前の冬に父が他界しました。

父はあまり自分の過去の話しをしないタイプの男でした。

昔風の家父長的でプライドが高く、躾など教育にはとても厳しかったです。


埼玉県深谷市の近代では地元の英雄 渋沢栄一を尊敬していて、論語を学び、

侍や武士道精神を大事にしていました。

そして細身ながらも武道活動を重視していて、でもハイカラが好きでスキーが上手でした。


時々酔っ払うと俺は かの成澤氏を復興するんだ、とか、

いつか中国大陸へ行って仙人の術を身につけるんだ、とかよく言っていました。


私が小学生になる前の6歳の時に祖母が亡くなりました、祖母は私をいつも可愛がってくれました。

祖母は昔の家系の話をよくしてくれて「がんばるんだよ」といつも励ましてくれました。


以前、父や伯母から いろいろと本家は 埼玉県深谷と長野、そしてルーツは山形へと続く家系があり、

我が家では相続での複雑な事情があって、

実家とは分かれることにして私の祖父母は昭和初期へ東京へ出てきた、と言っていました。


今日はふと偶然調べていて、その家系のことが出てきました。

私の本籍は埼玉県深谷市本住町ですが、その関係する家系で、

鎌倉の明月院、小田原や今住む土地が心地よい理由がわかりました。


以前、記しましたが、やっぱり「遺伝子」には言葉にはならない「記憶」があるのを思いました。

私もやっぱり成澤氏の末裔の一人でした。


所 在 地 埼玉県熊谷市成沢1125 別  名 成澤館
築城年代 大永5年(1525) 築 城 者 成澤越前守義佑
主な城主 成澤氏-深谷上杉氏

区  分 平城 史跡指定 なし
遺  構 土塁・空堀 現  状 静簡院

ここに古くは浄閑寺という寺院があったが衰退し、

大永5年(1525)に関東管領職の山内上杉憲政の配下にあった成澤義佑が成澤城を築いたという。

義佑は上杉氏の保護を受け成澤城で甲斐の武田氏に対する守りを固めたという。

現在の城址に建つ静簡院は上杉憲盛による開基であり、

成澤義佑死後も成澤城は深谷上杉氏によって守られていたということである。


深谷上杉家(ふかやうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。

山内上杉家の上杉憲顕の実子である、上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、

憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任じられた。


扇谷上杉家と共に武蔵国を割拠していたが、

上杉朝定が北条氏康に敗れ滅亡し後北条氏の勢力が武蔵に及ぶと、

憲英から数えて七代目の憲盛の代に、後北条氏に降伏した。以後は後北条氏の傘下となったが、

小田原の役で後北条氏が敗れた後は豊臣秀吉によって所領を奪われた。

庶流に深谷氏、小久保氏、久下氏、市田氏。

代表的な家臣には岡谷氏、秋元氏、井草氏、上原氏らがいる。


深谷城(ふかやじょう)とは、現在の埼玉県深谷市本住町にあった城である。

康正2年(1456年)、深谷上杉氏の上杉房憲が築いた。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原の役で開城するまで、深谷上杉氏の居城であったが、

徳川家康の関東入部に伴い、長沢松平家の松平康直が1万石で入城した。


その後、家康の七男松千代、兄の六男忠輝が継いだ。

しかし、忠輝は慶長7年(1602年)に下総佐倉へ転封となり、

慶長15年(1610年)に桜井松平氏の松平忠重が入封したが、

元和8年(1622年)上総国佐貫へ移封された。


その後酒井忠勝が1万石を領有して入封したが、

寛永4年(1627年)に武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩となり、

寛永11年(1634年)に廃城となった。


現在は、城址公園として整備されているが、遺構は残っていない。

模擬石垣・塀・堀が造られている。ただし、隣接する富士浅間神社の周囲に外堀跡が残っている。