かつて、よくあることですがこんな問いがありました。

卵が先か、鶏が先か。

問われた後には考えさせられねばならぬ質問というのがあります。


善が先か、悪が先か。

男が先か、女が先か。

「問い」というものは、様々な回答(正解とは限らない)を引き出そうということから存在すると思うのです。

実はこれらは「考えるため」に、あるいは「答える人」の性質をみたいために発せられた質問だ、ということが判ります。

時代によって「質問の意義」というのは変わるようです。

故意に混乱させられる「問い」というのは、考えさせるか、あるいは判別力を奪うためにあるように感じています。

私の回答としては、

鶏は親であり、卵は子供(になる前の滋源体・・これは私の造語です)である。

先か後は人間ごときが考えて判ることではない、取り繕って判ろうとすれば苦しくなるだけです。


鶏は親として一羽の鳥として伸び伸び生きればよいのであり、

卵は孵化してひよこになったら元気にすくすくと育って鶏になっていけばよいのであります。

我らが人間が、よいのは今が先か後が先か・・

そんなことを考えて過ぎていても答えが出なければ意味がない。時間も勿体ない。

今を活き活きと楽しく過ごし、未来も活き活きと楽しく過ごせれば嬉しい。


だから先でも後でも、いつだって頑張って生きている喜びを実感していくだけです。

頑張ります!


追伸:

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