この一年の間に自分の親戚や知人の幾人か旅立っていきました。
やっぱり実は一番こたえたのは6年前に父が旅立った時のことでした・・
その年は自分の誕生日の日に雪が横浜でもかなり降り積もり、
翌日の日曜日の屋外太極拳も雪のない場所で頑張って行ったのを覚えています。
そしていつものように日曜日の午後は武術院の活動を行いました。
帰宅して眠っていたところへ夜中の12時半過ぎに電話が鳴り、
父が食事中に餅を喉に詰まらせてしまい救急車を呼んで病院に来ていると姉からの連絡でした。
30分過ぎにもう一度電話がかかりなんとか大丈夫なようだという話しを聞きました。
そして一眠りをしてから、もう一度4時頃に電話が鳴り、
姉が遠くで震える弱い声で「父が亡くなった」と伝えられました。
朝はそのまま午前、午後、夜とレッスンをこなしました。
ずっと移動の電車の中ではめぐる思いの中で涙がこぼれ続けました。
クラブに着く前に駅のトイレで顔を洗い、目を冷やして会員さんたちには悟られないようにするために
レッスンでもいつも通りに「いつもの自分」を演じるべく意識を高め、
その場所にいる自分の役割へと集中力を高めて行いました。
夜になって府中の両親の元に帰りました。
冷たくなった父の姿を見て、額を抱きしめて
何も為す術のない自分が情けなく悲しい気持ちでいっぱいになりました。
ずっと今までの若き父の姿から晩年までの想いが頭の中をかけ巡り続けました。
次の日もレッスンでは代行が立てられなくて自分がやるしかありませんでしたので、
横浜に戻り、また同じようにレッスンを行い、また夜遅くに府中へ帰りました。
ようやくの水曜日の休みの日に、
葬儀のために家族全員と伯母と一緒に埼玉の深谷の祖母たちのお墓のあるお寺へと向いました。
その時にも雪がたくさん降り出して来て車の中から真っ白な中にずっと想い続けました。
お寺の成澤家の墓にお骨を入れる時に祖母のお骨が見えました。
その時急に自分が6歳の時の記憶が呼び起こされもしました。
そう、父はこの冬は寒い深谷から祖母と伯母と一緒に夢を抱いて東京に出てきたのでした。
そして母とめぐり合い、そして自分は4人兄弟姉妹の3番目に生まれました。
生活はいつも大変だったけれど何かいつも充実していて楽しかったです。
自分は小学6年生までは水泳と剣道をすすめられたのでやっていました。
中学に入った時からずっと中国武術の道を志して、練功を積みました。
いつも身体が痛くて母はそんなのは辞めた方がよいとまで言われたけれども、
父だけは自分の目指した道ならば自分の意志で行けば良い、と言ってくれました。
それから20年近くほど時が経ち、
自分は横浜に出てきてから数年後に父は体調を崩して仕事を辞め、兄が引き継ぎました。
その時自分はスポーツクラブで知り合った体育教師の方からの縁で
上海の恩師である邱丕相老師と東京で再会できました。
それが馬王堆導引図に描かれた「導引術」のシンポジウムだったのです。
その恩師の講義を受けに、訪ねたところ喜んでくださり 参考資料やテキストなどを多く頂きました。
それからその実践をすすめられ一度は競技を辞め、
長年感じた身体の故障を直すためにも導引の研究と同時に練功を始めました。
それはとても大きな効果がありました。
もう一度競技に復帰できたのもその方法を取り入れたトレーニングが功を奏しました。
2001年の夏にアメリカに行き全米の武術大会見学とアメリカでのフィットネスの現状を知り、
更に陰陽五行説に通じる中医学から学び、解剖学をも勉強するようになりました。
意外なことにアメリカのフロリダのオーランドで
邱丕相老師と再会した時はまたまたびっくりしました。その時は胡堅強先生も一緒でした。
それからまた上海に時間を見つけては訪ねるようになりました(その時は既に健身気功五禽戯のプロジェクトに入っていて少し教えてもらえました)
この頃から自分のレッスンはどこでも好評を頂けるようになり大きな自信がつきました。
それからも研究と実践は引き続けていて中国への足を運んでの学習(特に華侘五禽戯や道教医学)は今でも深化させていると思います。
それから府中の実家に戻る時には父に足の按摩やマッサージを施し、
導引からアレンジした運動を父に教え、一緒に行いました。
父は腎臓を傷めていたのがわかりました。
そのために更にその部分を掘り下げ他の気功運動からも取り入れて、
いくつか母にも教え自分がいない時にもやってくれるように頼みました。
それから時間が経ち父はだんだんと元気になり、自分の心配もなくなり安心をし始めていた時でした。
6年前の正月も府中で家族みんなで酒を飲んでは語らい、父は横でニコニコ笑ってくれていました。
母に聞くと、父は上機嫌で
「正治が横浜で一人でも頑張っているから、俺もまた元気になってまだまだやりたいことをやる」
と言い出してまた張り切っているみたいだと教えてくれました。
それから2週間後に父は急逝しました・・
思うと父への恩返しの想いから学び 覚え、考えた技が、
今の自分の仕事でも普及のための教室でも自分の父や母と同じ年くらいの皆様にと役立っています。
父がいなくなってから6年。
自分は本当に心身共に更に強くなれたと思います。
それからは何があっても負けなくなりました、
時には非情なまでの精神力をも身に付いたと実感しています。
どうしようもない悲しみの中から 何かを見つけ魂を磨き、
精神力の強度を高めて、新たな努力を積み重ねていくことを知りました。
残る者は先に旅立った人の意識を引き継ぎ
生きて生きて生き抜いてこそ恩返しになると考えるようになりました。
今は伝統華侘五禽戯の技と哲理を学び、会得できたことで更にこれからも進化できると思います。
そして、自分にもいつかは必ず去る時はやってきます。
その頃には、何もやり残したことのないほどいつもベストを尽くし、
何時、何処でも後悔のない毎日を過ごすことだと自分はいつも思っています。
そう考えると恥ずかしいことも格好悪いこともすべてなくなり、
何も 誰をも怖れることはなくなりました。
一番最後に亡き父が教えてくれたことでした。
そして先日にも旅立った友人たちの心意気を受け継ぎ、
もう今この瞬間からまた一生懸命に生きようと感じるのです。
空の上から微笑んでいてくれるかも知れないので、一早く立ち直り
世の中の人の身体の不安を取り除くためにも自分自身はいつも元気であり続けて、
また生命の炎を燃やし続けられる限り燃やし続けて頑張ろうと思うのです。
やっぱり実は一番こたえたのは6年前に父が旅立った時のことでした・・
その年は自分の誕生日の日に雪が横浜でもかなり降り積もり、
翌日の日曜日の屋外太極拳も雪のない場所で頑張って行ったのを覚えています。
そしていつものように日曜日の午後は武術院の活動を行いました。
帰宅して眠っていたところへ夜中の12時半過ぎに電話が鳴り、
父が食事中に餅を喉に詰まらせてしまい救急車を呼んで病院に来ていると姉からの連絡でした。
30分過ぎにもう一度電話がかかりなんとか大丈夫なようだという話しを聞きました。
そして一眠りをしてから、もう一度4時頃に電話が鳴り、
姉が遠くで震える弱い声で「父が亡くなった」と伝えられました。
朝はそのまま午前、午後、夜とレッスンをこなしました。
ずっと移動の電車の中ではめぐる思いの中で涙がこぼれ続けました。
クラブに着く前に駅のトイレで顔を洗い、目を冷やして会員さんたちには悟られないようにするために
レッスンでもいつも通りに「いつもの自分」を演じるべく意識を高め、
その場所にいる自分の役割へと集中力を高めて行いました。
夜になって府中の両親の元に帰りました。
冷たくなった父の姿を見て、額を抱きしめて
何も為す術のない自分が情けなく悲しい気持ちでいっぱいになりました。
ずっと今までの若き父の姿から晩年までの想いが頭の中をかけ巡り続けました。
次の日もレッスンでは代行が立てられなくて自分がやるしかありませんでしたので、
横浜に戻り、また同じようにレッスンを行い、また夜遅くに府中へ帰りました。
ようやくの水曜日の休みの日に、
葬儀のために家族全員と伯母と一緒に埼玉の深谷の祖母たちのお墓のあるお寺へと向いました。
その時にも雪がたくさん降り出して来て車の中から真っ白な中にずっと想い続けました。
お寺の成澤家の墓にお骨を入れる時に祖母のお骨が見えました。
その時急に自分が6歳の時の記憶が呼び起こされもしました。
そう、父はこの冬は寒い深谷から祖母と伯母と一緒に夢を抱いて東京に出てきたのでした。
そして母とめぐり合い、そして自分は4人兄弟姉妹の3番目に生まれました。
生活はいつも大変だったけれど何かいつも充実していて楽しかったです。
自分は小学6年生までは水泳と剣道をすすめられたのでやっていました。
中学に入った時からずっと中国武術の道を志して、練功を積みました。
いつも身体が痛くて母はそんなのは辞めた方がよいとまで言われたけれども、
父だけは自分の目指した道ならば自分の意志で行けば良い、と言ってくれました。
それから20年近くほど時が経ち、
自分は横浜に出てきてから数年後に父は体調を崩して仕事を辞め、兄が引き継ぎました。
その時自分はスポーツクラブで知り合った体育教師の方からの縁で
上海の恩師である邱丕相老師と東京で再会できました。
それが馬王堆導引図に描かれた「導引術」のシンポジウムだったのです。
その恩師の講義を受けに、訪ねたところ喜んでくださり 参考資料やテキストなどを多く頂きました。
それからその実践をすすめられ一度は競技を辞め、
長年感じた身体の故障を直すためにも導引の研究と同時に練功を始めました。
それはとても大きな効果がありました。
もう一度競技に復帰できたのもその方法を取り入れたトレーニングが功を奏しました。
2001年の夏にアメリカに行き全米の武術大会見学とアメリカでのフィットネスの現状を知り、
更に陰陽五行説に通じる中医学から学び、解剖学をも勉強するようになりました。
意外なことにアメリカのフロリダのオーランドで
邱丕相老師と再会した時はまたまたびっくりしました。その時は胡堅強先生も一緒でした。
それからまた上海に時間を見つけては訪ねるようになりました(その時は既に健身気功五禽戯のプロジェクトに入っていて少し教えてもらえました)
この頃から自分のレッスンはどこでも好評を頂けるようになり大きな自信がつきました。
それからも研究と実践は引き続けていて中国への足を運んでの学習(特に華侘五禽戯や道教医学)は今でも深化させていると思います。
それから府中の実家に戻る時には父に足の按摩やマッサージを施し、
導引からアレンジした運動を父に教え、一緒に行いました。
父は腎臓を傷めていたのがわかりました。
そのために更にその部分を掘り下げ他の気功運動からも取り入れて、
いくつか母にも教え自分がいない時にもやってくれるように頼みました。
それから時間が経ち父はだんだんと元気になり、自分の心配もなくなり安心をし始めていた時でした。
6年前の正月も府中で家族みんなで酒を飲んでは語らい、父は横でニコニコ笑ってくれていました。
母に聞くと、父は上機嫌で
「正治が横浜で一人でも頑張っているから、俺もまた元気になってまだまだやりたいことをやる」
と言い出してまた張り切っているみたいだと教えてくれました。
それから2週間後に父は急逝しました・・
思うと父への恩返しの想いから学び 覚え、考えた技が、
今の自分の仕事でも普及のための教室でも自分の父や母と同じ年くらいの皆様にと役立っています。
父がいなくなってから6年。
自分は本当に心身共に更に強くなれたと思います。
それからは何があっても負けなくなりました、
時には非情なまでの精神力をも身に付いたと実感しています。
どうしようもない悲しみの中から 何かを見つけ魂を磨き、
精神力の強度を高めて、新たな努力を積み重ねていくことを知りました。
残る者は先に旅立った人の意識を引き継ぎ
生きて生きて生き抜いてこそ恩返しになると考えるようになりました。
今は伝統華侘五禽戯の技と哲理を学び、会得できたことで更にこれからも進化できると思います。
そして、自分にもいつかは必ず去る時はやってきます。
その頃には、何もやり残したことのないほどいつもベストを尽くし、
何時、何処でも後悔のない毎日を過ごすことだと自分はいつも思っています。
そう考えると恥ずかしいことも格好悪いこともすべてなくなり、
何も 誰をも怖れることはなくなりました。
一番最後に亡き父が教えてくれたことでした。
そして先日にも旅立った友人たちの心意気を受け継ぎ、
もう今この瞬間からまた一生懸命に生きようと感じるのです。
空の上から微笑んでいてくれるかも知れないので、一早く立ち直り
世の中の人の身体の不安を取り除くためにも自分自身はいつも元気であり続けて、
また生命の炎を燃やし続けられる限り燃やし続けて頑張ろうと思うのです。