昨日今日とのんびり休んで、いろいろと振り返って考えていました。
ふと気付いたのは、自分が
ずっと闘っていた見えない相手の正体が見えてきたのが判りました。
この日本という国に生まれてきてよかったと、いつも思うのは
アジア文化の多くのエッセンスを歴史的に吸収しその精華を先人たちが高めてきたことです。
ふと自分のいた中国武術界を思えば、確かに
虎穴に入らずんば虎児を得ず、の世界。
自分が今から30年前の少年時代だった頃 小中学生の時に思ったことは、
子供の世界でも何でこんな嫌がらせをするのかな、とか
どうして理由のないイジメが流行るのかな、とかを考えていました。
ふと気付いた時にそれを止めさせられるような力や思考力が欲しいと思っていました。
そこにおいて自由自在に動き回れる身体操作をする中国の武術人や
不老長生の仙人の境地にいられる哲学などを深く勉強してみたいと考えていて、
13歳の時から住んでいた東京にあるあちこちの団体を訪ね回りました。
しかしどこも何かしら純粋な世界とは思えず、日本の古武道に混じっていたり、
体育スポーツのような明るく健全な世界でもありませんでした。
辿り着いた考えは本場で勉強しトレーニングするしかない、ということでした。
その武術を学ぶために中国へ幾度と行き、得たものは大きかったです。
日本を出ることで多くが見えることは大事でした。
しかしここ数年に改めて感じたことは
中国と日本ではまだまだ様々な障壁が存在していることをも知りました。
自分が高校生の時はただひたすらに技芸を高めることを考えて打ち込みました、
大学生になった時は学業と両立で複雑な思いもありました。
社会人になり、より大きな世界が見えてくると一筋縄でいかないこともみえてきます。
しかし自分が中国により近づいていたことで学び継続して得られたものはとても大きかったです。
もし自分が日本を出なければ知ることのできないことがをたくさんありました。
まさしく、虎穴に入らずんば虎児を得ず でした。
これからも自分がずっと大事にしていきたいのは日本の風土と食文化、そして精神文化です。
特に人へのおもいやりの意識感覚は素晴らしいこと、だと感じています。
しかし留意すべきは「体育」や「運動」は歴史的にあまり発達をせず、
勝ち負けと比較によるモチベーションを生かすことで競争力を上げ、
所謂「力持ち」を目指す大きな部分の肌肉からの筋力強度を高める「スポーツ競技」
遊び感覚の「レジャー」
気分転換程度の健康法が定着したのみで、まだまだ養生運動を根付かせる余地が必要です。
元気な心身は正しい方法で効果が確実で意識的に高めなくてはいけないと思います。
おそらく、かつての日本人のライフワークは第一次産業が多く、
肉体労働でいつも体を動かしていたから それが運動代わりになっており
ゆえに病気になりにくく元気でいられたのだと思うのです。
これからはもっと多くの皆さんの元気な体づくりのための
「健康不安」や「精神の心配事」を取り除くのに学んだ技が役立てられると思います。
それに日本人が日本人らしくいられるのも
北海道から沖縄まで多くの島々のある国土の自然の美しさにあります。
この地は先代から長く続く「日本人たち」のものです。
こうして書くと日本人とは誰か、なんて議論を誰かに仕掛けられがちですが、
それは逆接的に言わせてもらえば、伝わるはずだと思います。
自分の経験してきたことで感じた、思いやり意識からくる「日本人」らしさ、とは
いつも身勝手な行動や考え方ばかりが先行し、
そのことで自分以外の誰かが困ったとしても、行うようなことはしない、させない。
集団組織の中ではどさくさに紛れ込み入りこんできてはその利権を簒奪し、
その人の都合によって人を追い出したりはしない。
いつも約束を守らなかったり、常に保身のための嘘をつく、ことはしない。
何か気に入らない人を見つけると叩く理由を探してきては、見つけ出し
それを責めていくことを目的手段とはしない。
これは何かしら意思表示である行動をとると邪魔をしてきたり、何かと揚げ足をとったり、
あるいは揚げていない足を上げさせられて責められる=罠などを仕向けない。
こういった「ある風潮ややり方」をいつの間にか国内で相互にやられてはやり返し、
次世代は無意識にも「そういうものだ」と思い込むようになって今日に来ました。
だからこそ面倒な人間関係には係わりたくないと考える人も多く出て、
空想的な世界に閉じこもりやすくなったように思えます。
あるいは何も責任をとりたくはなく、
お金を払えばすべてよいと考えて耽美・享楽的な生き方をする人も出ます。
そのことゆえに世が正しくなるために何をしたら良いかを考えたり、
教養を持とうと考えて努力するより、気楽で気儘な遊戯世界が好きになっていくみたいです。
現代日本、特に大都市では 今や何でもありの世界ですが、
受けてきた普及教育の歪みのある中でも「心」のはたらきを
いつだって取り戻すことはできると思います。
日本は多くの国の文化を取り入れて人々の生活に役立てて、
誰もが公平に喜んでもらえる、ということはよいことだと思います。
しかしそれがいつの間にか日本人としての精神文化や歴史をないがしろにして、
混乱と混沌を引き起こし整理もできなくなるほど迷うようになってはならない、と思います。
多くが気付いていない間に、
日本に暮らしているたくさんの人々はいつしか「日本人的」ではなくなり、
アジア人でもないし、欧米人でもない。
「日本とは何か」がわからずに自分たちで仲間割れを起こすような世間にしてしまってはならない。
自分がずっと闘ってきた相手は、それらを引き起こす「思考」の代弁者のような存在でした。
しかし長くその姿は目に見えず、知らぬ間に人々の心の隙間に入り込んで、
あるいは何気なく圧倒的多数に投げかけられている言葉の中に混入していることもあります。
何気なく話されているネガティブキャンペーンや根拠のない絵空事な文言に同調してしまうことで
その思考はウィルスのように増殖していることもあります、
恐ろしいのは聞いていたりする本人たちも気付いていないことでした。
考えるに、それは「誰かに」仕組まれていたのだろうか。
しかしそれを仕組んでいた人間たちの思考は、戦後64年の年が経ち、
もう肉体や精神にもかなりの時間が過ぎていることだろう。
ここ数年は
その時間が少なくなってきた姿の見えない代弁者たちとの最後の闘いの時だったのかも知れない。
まだまだ我々には時間があります。
日本は必ず良くなって再生・新生できるだろう、と信じています。
しかしそのためには「日本の心」を大事に理解できる人たち同士が語り合い、
力を合わせていけるでしょう。
見ている景色は同じものを見ているはずなのですから・・
来年の目指す方向が自分の中でよりしっかりしてきたのを実感します。
ふと気付いたのは、自分が
ずっと闘っていた見えない相手の正体が見えてきたのが判りました。
この日本という国に生まれてきてよかったと、いつも思うのは
アジア文化の多くのエッセンスを歴史的に吸収しその精華を先人たちが高めてきたことです。
ふと自分のいた中国武術界を思えば、確かに
虎穴に入らずんば虎児を得ず、の世界。
自分が今から30年前の少年時代だった頃 小中学生の時に思ったことは、
子供の世界でも何でこんな嫌がらせをするのかな、とか
どうして理由のないイジメが流行るのかな、とかを考えていました。
ふと気付いた時にそれを止めさせられるような力や思考力が欲しいと思っていました。
そこにおいて自由自在に動き回れる身体操作をする中国の武術人や
不老長生の仙人の境地にいられる哲学などを深く勉強してみたいと考えていて、
13歳の時から住んでいた東京にあるあちこちの団体を訪ね回りました。
しかしどこも何かしら純粋な世界とは思えず、日本の古武道に混じっていたり、
体育スポーツのような明るく健全な世界でもありませんでした。
辿り着いた考えは本場で勉強しトレーニングするしかない、ということでした。
その武術を学ぶために中国へ幾度と行き、得たものは大きかったです。
日本を出ることで多くが見えることは大事でした。
しかしここ数年に改めて感じたことは
中国と日本ではまだまだ様々な障壁が存在していることをも知りました。
自分が高校生の時はただひたすらに技芸を高めることを考えて打ち込みました、
大学生になった時は学業と両立で複雑な思いもありました。
社会人になり、より大きな世界が見えてくると一筋縄でいかないこともみえてきます。
しかし自分が中国により近づいていたことで学び継続して得られたものはとても大きかったです。
もし自分が日本を出なければ知ることのできないことがをたくさんありました。
まさしく、虎穴に入らずんば虎児を得ず でした。
これからも自分がずっと大事にしていきたいのは日本の風土と食文化、そして精神文化です。
特に人へのおもいやりの意識感覚は素晴らしいこと、だと感じています。
しかし留意すべきは「体育」や「運動」は歴史的にあまり発達をせず、
勝ち負けと比較によるモチベーションを生かすことで競争力を上げ、
所謂「力持ち」を目指す大きな部分の肌肉からの筋力強度を高める「スポーツ競技」
遊び感覚の「レジャー」
気分転換程度の健康法が定着したのみで、まだまだ養生運動を根付かせる余地が必要です。
元気な心身は正しい方法で効果が確実で意識的に高めなくてはいけないと思います。
おそらく、かつての日本人のライフワークは第一次産業が多く、
肉体労働でいつも体を動かしていたから それが運動代わりになっており
ゆえに病気になりにくく元気でいられたのだと思うのです。
これからはもっと多くの皆さんの元気な体づくりのための
「健康不安」や「精神の心配事」を取り除くのに学んだ技が役立てられると思います。
それに日本人が日本人らしくいられるのも
北海道から沖縄まで多くの島々のある国土の自然の美しさにあります。
この地は先代から長く続く「日本人たち」のものです。
こうして書くと日本人とは誰か、なんて議論を誰かに仕掛けられがちですが、
それは逆接的に言わせてもらえば、伝わるはずだと思います。
自分の経験してきたことで感じた、思いやり意識からくる「日本人」らしさ、とは
いつも身勝手な行動や考え方ばかりが先行し、
そのことで自分以外の誰かが困ったとしても、行うようなことはしない、させない。
集団組織の中ではどさくさに紛れ込み入りこんできてはその利権を簒奪し、
その人の都合によって人を追い出したりはしない。
いつも約束を守らなかったり、常に保身のための嘘をつく、ことはしない。
何か気に入らない人を見つけると叩く理由を探してきては、見つけ出し
それを責めていくことを目的手段とはしない。
これは何かしら意思表示である行動をとると邪魔をしてきたり、何かと揚げ足をとったり、
あるいは揚げていない足を上げさせられて責められる=罠などを仕向けない。
こういった「ある風潮ややり方」をいつの間にか国内で相互にやられてはやり返し、
次世代は無意識にも「そういうものだ」と思い込むようになって今日に来ました。
だからこそ面倒な人間関係には係わりたくないと考える人も多く出て、
空想的な世界に閉じこもりやすくなったように思えます。
あるいは何も責任をとりたくはなく、
お金を払えばすべてよいと考えて耽美・享楽的な生き方をする人も出ます。
そのことゆえに世が正しくなるために何をしたら良いかを考えたり、
教養を持とうと考えて努力するより、気楽で気儘な遊戯世界が好きになっていくみたいです。
現代日本、特に大都市では 今や何でもありの世界ですが、
受けてきた普及教育の歪みのある中でも「心」のはたらきを
いつだって取り戻すことはできると思います。
日本は多くの国の文化を取り入れて人々の生活に役立てて、
誰もが公平に喜んでもらえる、ということはよいことだと思います。
しかしそれがいつの間にか日本人としての精神文化や歴史をないがしろにして、
混乱と混沌を引き起こし整理もできなくなるほど迷うようになってはならない、と思います。
多くが気付いていない間に、
日本に暮らしているたくさんの人々はいつしか「日本人的」ではなくなり、
アジア人でもないし、欧米人でもない。
「日本とは何か」がわからずに自分たちで仲間割れを起こすような世間にしてしまってはならない。
自分がずっと闘ってきた相手は、それらを引き起こす「思考」の代弁者のような存在でした。
しかし長くその姿は目に見えず、知らぬ間に人々の心の隙間に入り込んで、
あるいは何気なく圧倒的多数に投げかけられている言葉の中に混入していることもあります。
何気なく話されているネガティブキャンペーンや根拠のない絵空事な文言に同調してしまうことで
その思考はウィルスのように増殖していることもあります、
恐ろしいのは聞いていたりする本人たちも気付いていないことでした。
考えるに、それは「誰かに」仕組まれていたのだろうか。
しかしそれを仕組んでいた人間たちの思考は、戦後64年の年が経ち、
もう肉体や精神にもかなりの時間が過ぎていることだろう。
ここ数年は
その時間が少なくなってきた姿の見えない代弁者たちとの最後の闘いの時だったのかも知れない。
まだまだ我々には時間があります。
日本は必ず良くなって再生・新生できるだろう、と信じています。
しかしそのためには「日本の心」を大事に理解できる人たち同士が語り合い、
力を合わせていけるでしょう。
見ている景色は同じものを見ているはずなのですから・・
来年の目指す方向が自分の中でよりしっかりしてきたのを実感します。