「荘子」の文献に 孔子とある老人(老子)とが出会った時の問答の様子が出てきます。

弟子の子貢が老子と出会った時の会話。


「孔子」というのはどういう仕事をしているのかな。と老子が子貢に尋ねた。

子貢が答えた。

「孔子」という方は、心は誠実そのもので身には仁義の徳を行い、

儀礼と雅楽をととのえて人としての道を定め上は世の君主にまごころを尽くし、

下は万民を教化して、天下の利益を興そうとしておられます。これが孔子のお仕事です。」


老子は聞いた「領地をもった殿様かな、」

子貢「違います」

老子「では諸侯を助ける顧問かな」

子貢「違います」

老子はそこでにやりと笑ってくるりと向きを変え、元に来た道を戻りながらこうつぶやいた。

「仁であることは確かに仁だ、だがそのわざわいは恐らくさけられまい。

心を苦しめ、体を疲れさせて、生まれつきの真実を傷つけているのだ。

ああ、遠く離れているなぁ、本当の道にそむいて・・」


帰っていった弟子の子貢に孔子はその話を聞き、「聖人」だと知り 大急ぎで老子の元にかけつけ拝礼をして彼はこう話した。

孔子「私は幼い時から学問修行をして今日まで六十九年もたっていますが、

最高の教えを承る機会はまだありませんでした。心を開いてお教えを受けないでおれましょうか」

老子は口を開いた。

あなたの学んでいることは、人の世のことがらだ。

天子と諸侯と大夫、(つまりは官僚)と庶民と四つの階級のものがそれぞれに正しいあり方であれば、

世の中は立派に収まっていることになる。

四つの階級がそれぞれの立場を離れるようなことになれば、

これ以上の大きな混乱はない。

官にあるものはそれぞれの職務を果たし庶民はそれぞれの仕事に落ち着いている、ということなら、

他人の領分をおかすこともないものだ。

そこで田地が荒れて家がこわれ、衣食は足りず、年貢はとどこおり、

妻や妾も仲が悪く、年長者と若者との序列が乱れているというのが、庶民の心配すべきことである。

任務をはたすだけの才能がなく、役所の仕事がうまく運ばず、品行は潔癖でなく、

部下の役人は怠け放題、仕事の成績は上がらず、

爵位や俸禄も維持できないのが、大夫の心配すべきことである。

朝廷には忠臣がおらず、国家は混乱し、技術者はへたくそで天子への貢物をもすぐれず、

春秋の参内では宮中の席次を下げられ、天子の機嫌をとり結ぶこともできない、というのが 

諸侯の心配すべきことである。

陰と陽の自然の大気が調和せず、季節はずれの寒さや暑さがやってきて万物の生育を妨げ、

諸侯たちは暴れ放題で 勝手に攻めあって民衆の生活を破壊し、

礼儀と雅楽の節度は破られ、財政は窮乏し、

人としての仁義は廃れて万民がでたらめになる、というのが天子の心配すべきことである。


ところであなたは、今や上は諸侯や高官の威勢があるわけでなく、

下は大臣や家老の官位がある訳ではない。

それなのに勝手に礼儀や雅楽をととのえ、人の道を定め。

それによって万民を教化しようとしているのだ、あまりにも余計なことではないかな。


それに人間には八つの欠点があり、仕事には四つの心配ごとというのがある。注意しなければならないことだよ。

(八つの欠点、というのは)

自分の仕事でもないのに、それを自分の仕事にする、これを何でも屋 という。

ふりかえりもしないのに無理に進言する、これを口達者という。

相手の心をうかがいながらそれに迎合した話し方をする、これを諂い。という。

正しいかどうかにおかまいなく調子を合わせて話し込む、これをおもねりという。

すぐに他人の悪事を言い立てる、これを悪口という。

人の交際を引き裂き 親しい仲をひき離す、これを賊害という。

誉めたあげたうえで 騙して人を陥れる、これを邪悪という。

善いか悪いかにおかまいなく、

両方とも気に入ったように受け入れながら、自分の望むことだけを抜き取って利用する、

これを陰険という。

この八つの欠点があると外では他人を混乱させ、外では他人を混乱させ 

内は我が身をだめにすることになって、有徳の君子からは友だちにされず、

聡明な君主には臣下にされないものだ。


さて四つの心配事といったのは、

何かにつけて、大きな仕事に手をつけ 

普通の定まったやり方を変更して、それで功名をあげようと狙っている。

これを強つくばり という。


考えることも勝手なら、仕事も勝手。


それで他人を侵害して自分の利益を図る。これを貪欲という。

過失が判っても改めようとせず、人に諌められると一層ひどいことをする。これを臍曲がりという。


自分に同調することを好しと認めるが、同調しないと良い意見でも良いと認めない。

これを一人よがりという。

以上が四つの心配ごとだ、

八つの欠点を除くことができて、四つの心配ごとを行わないでおれるなら、

そこで始めて真実を教えられるのだ。


孔子は身をひきしめて嘆息すると、二度の拝礼をしてから口を開いた。


私は二度も魯の国から追放され、衛の国では足跡を消されるまで排斥され、

宋の国では 大木を切り倒されて下敷きにされそうになり、陳と蔡の国では暴徒に囲まれました。

わたくしこれという落ち度もないと思いますのに、

こんな四回の排斥にあったのはどうしたわけでしょうか。


老人はあわれんだ様子で、こういった。

ひどいものだね、あなたの悟りの悪さは・・・略

ひきしめて、自分の身を修め 慎んで生まれつきの真実なものを守り、

世俗のものは人々に返してしまうなら 何物にも乱されることがなくなるだろう。

今我が身に道を修めることをしないで、他人にそれを求めているのは、

なんと外界にとらわれたことであろうか。

孔子は慎み深いようすになって、

「どうかお教え願いたいのですが、真実というのはどういうことでしょうか」

老人は答える。

「真実というのは、純粋誠実の極みだよ、純粋でなく 誠実でなければ 他人は感動することはない。

だから無理にでも泣き叫ぶ者がいて辛そうにしていても その悲哀は誰にも伝わることはない。

無理に怒る者は厳しい姿を演じても威力はなく、

無理に親しくしようと近づく者はにこにこしていたとしても和やかさは感じられない。


真実の泣き叫びは、声をたてなくても悲しみが伝わり、

真実の怒りは厳しくなくとも威力があり、真実の親しみはにこにこしなくとも和やかなものだ。

真実が内にたくわえられていると、微妙な心のはたらきが外にあらわれてくる。


真実が貴重なのは そのためなのだ~略~


真実というのは天から受けたものであって自然なあり方を模範として真実を尊重し、

世俗のことにとらわれたりはしない。


愚か者は、その反対である。


天のあり方を模範とすることができないで、

人としてのはたらきに意識を使いすぎ、真実を尊重すべきだということがわからないで、

世俗の流れに従って同化されていく。


だから真実が足りなくなっていくのだ。


残念なことだ、あなたは若い時から人為の「礼」の世界に落ちこんで 

今頃になってやっと偉大な道について知ったとは・・

~略~

わしは、一緒に進める相手とは 手を取って道の究極までゆきつけるが、

一緒に進むだけの力のない相手では、その道を理解させることはできない。


そんな手あいとは一緒にならないようにするのが身の安全だとね。

あなた、がんばってくれたまえ、わしはあなたから離れるよ、わしはあなたから離れるよ。