中国の安徽省亳州市は歴史に残る4人の偉人を輩出した地です。

老子・荘子・曹操・華侘の4人です。

私はその老子・荘子の道家思想に強く影響を受けました。

亳州の現地にいては更にその思いを深くさせました。

その荘子を日本で研究された福永光司さんの著書「荘子」は

とても凛々しい表現の文章で書かれていて素晴らしい著述だと思います。


その「荘子」序説より、

荘子はいつわりのないもの、飾りのなもの、純粋なものを熱愛する。

彼は生命を害うもの、真実を歪めるもの、自由を束縛するものを激しく憎む。

彼にとって芸術とは人生と宇宙を貫く、いつわりなき生命の主体的表現であり、

詩とは常識的な価値の世界を超えた万象の根源的な真実を赤裸々な言葉として語ることであった。


荘子において彼の生活が同時に芸術であり、彼の哲学が同時に詩でありうる根拠がここにある。

彼の著作の開巻第一項が「逍遥遊」と題する一篇で始まっているのも偶然ではない。

逍遥遊というのは人間の自由な生活という意味であり、それを「遊」というのは、

日常の世界に身をおきながら、それに束縛されない自己の主体性をもつという意味である。

そして人間のこのような主体的な自由を「遊」という言葉で表現しているところの

荘子の哲学の芸術的なもしくは、詩的な性格が最も端的に示されている。

~略~

彼の自由は この生きている混沌を生きている混沌として愛することであった。


荘子 在宥篇

たしかに人間の心ほど不可解なものはない。

強いといえばこれほど強いものはなく、弱いといえばこれほど弱いものはない。

温かいといえばこれほど温かいものはなく、冷たいといえばこれほど冷たいものはない。

しかも強さと弱さが定めなく入れかわり、温かさと冷たさが気まぐれに変化する。

それは神の如き慈愛にほほえむか、とみれば悪魔の如き残忍さに狂いたち、

天空の高みに飛翔するかとみれば地底の深みに沈淪する。

風の如く去来し怒涛のごとく荒れ狂い、化石のごとく沈黙し、

しかもこれらの千変万化する動態の根底には、

氷山下部のごとき不気味な無意識の深層が果てしない広がりをもつ。


妄像と幻覚と痴夢とがその広がりをねぐらとして羽ばたき、抑鬱し脅え 

魘うなされる魂の悶えがその深層にかくれて怨恨と呪詛と復讐の刃やいばを研ぐ。


人間の執念ほど惨ましい殺戮の武器はなく、名剣と呼ばれる鋭さもこれには及ばない。

人間における陰陽の不調和ー喜怒哀楽情念の奔騰ほどおそろしい侵略者はなく、

天地の間に逃れる場所がない。

陰陽の不調和が人間を殺害するのではなく、心がそうさせるのである。